F今年は体調万全!妙円寺詣り

妙円寺詣りとは?

2011年、今年は前日夜の豪雨にもかかわらず当日は雨に降られずに甲冑を着ての妙円寺詣りができました。
今年の特筆すべきことは、参加者全員が体調万全だったこと。その理由は・・・前日夜に飲まなかったから(豪雨で高速が閉鎖になり鹿児島市内への到着が送れて飲めなかったから)・・・(笑)
以下の文章は大体毎年同じですので、常連の方は読み飛ばしてください(笑)。

妙円寺みょうえんじ詣りって何?

鹿児島の方には怒られそうですが、
宮崎の方、鹿児島県外の方のために妙円寺詣りの説明をします。
妙円寺詣りとは、毎年十月に鹿児島県日置市(旧伊集院町)の徳重とくしげ神社を中心として行われる伝統行事で、
関ヶ原の合戦における島津義弘しまづよしひろ公と、従軍した将士の苦難を後世に伝えるために、江戸時代に始まった行事です。
行事の日には、甲冑を着た侍達が、鹿児島市から島津義弘公が祭られている徳重とくしげ神社(明治の廃仏毀釈で妙円寺から徳重とくしげ神社となる)までの20キロ以上を夜を徹して歩いたそうです。
明治惟新の立役者である西郷隆盛や大久保利通もこの妙円寺詣りに参加して、心身を鍛錬していたということです。
また、妙円寺までの道中に歌われる「妙円寺詣りの歌」もあり、関が原の合戦場から鹿児島まで退却する島津義弘公主従の苦難が歌われています。

 なんで佐土原の人間がその妙円寺詣りに参加するの?

→当時の佐土原城主の島津豊久公が深く関係しているからです

実は関が原の合戦には、島津義弘公と共に、
当時の佐土原城主であった、島津豊久しまづとよひさ公も島津勢の副将として参戦していたのです。
皆さんご存知のように、島津勢が属した西軍は敗れました。
破れた西軍の諸将は、敵に背中を見せて敗走しましたが、島津勢だけは違っていました。
島津勢は、他の西軍の諸将とは逆に、前面の東軍の大軍勢に向かって突撃したのです。
敵軍の中央に突入した島津勢は、そのまま前進を続け、徳川家康の本陣をかすめ、
東軍一の猛将と言われた福島正則隊を突破し、関が原の戦場を離脱し、鹿児島まで退却したのです。
この退却劇は「島津の退ぐち」と呼ばれ、後世に語り継がれる退却劇となっています。
もちろん、その退却中に数多くの武将、兵卒が島津義弘公を逃がすために犠牲となりました。

その身代わりとなって討死した武将の一人が当時の佐土原城主の島津豊久公です。
豊久公は東軍の追撃を食い止めるために烏頭坂うづざか(うとうざか か?)にとどまり、追撃してくる徳川勢を相手に奮戦し、遂に討死してしまいます。
この様子は「妙円寺詣りの歌」にも歌われています。
げど倒せど敵兵の 重なり来たる烏頭坂 たばしる矢玉やだまおと凄く 危機は刻々迫るなり
 むくろも染みて猩々緋しょうじょうひ 御盾みたてとなりし豊久を 見るや敵兵且つ勇み むらがり寄する足速し』
この関ヶ原の詳しい様子は日向守関ヶ原訪問記をご覧ください

妙円寺詣りは、島津義弘公にお詣りする行事ですが、その一翼を担って従軍した島津豊久公のお膝元である、佐土原の人間が参加しても良いのでは?と思って参加しています。

佐土原城 遠侍間 佐土原城 遠侍間 リンク

日向守つれづれ 今年は豪雨で歩けず妙円寺詣り