伊東一族の日向国下向と佐土原城の始まり

伊東氏の一族が田嶋荘たじまのしょう(現佐土原)に来る

佐土原城を作ったのは伊東氏(の一族)であるが、そもそも伊東氏とはどのような一族なのか?
伊東一族の中興の祖は、工藤祐経すけつねという文武に秀でた武将である。
工藤祐経は九州地方における平家討伐にて功績を挙げ、源頼朝の側近となった鎌倉幕府の有力御家人である。また、「曽我兄弟の仇討ち」にて殺害されたその人である。
一族が工藤姓ではなく伊東姓を名乗り始めるのは、工藤祐経の息子の祐時すけときからである。
そして、実際に伊東氏の一族が佐土原に住み始めたのは13世紀の中頃である。
それは伊東祐時の息子の伊東祐明すけあきらが、父から相続した日向国田嶋荘たじまのしょう(宮崎県宮崎市佐土原町)に下向げこう(中央から地方へ移り住むこと)して来た時のことで、この瞬間から伊東氏と佐土原は直接的な関係を持ったのである。
日向国に移り住んだ伊東祐明の一族は田嶋荘にて土着領主化し、自らの領地の地名を名乗り、田嶋たじま伊東氏となった。(田嶋氏が興る)

伊東本家筋ほんけすじの日向国への下向げこう田嶋之城たじまのしろの建築

田嶋氏の成立から80年以上の歳月が流れると、鎌倉幕府は滅亡し、南北朝の騒乱の時代となっていた。
中央に残っていた伊東の本家筋の伊東祐持すけもちは武家方(足利尊氏側)の武将として戦い、その武功の恩賞として日向国の都於郡とのこおり荘(宮崎県西都市)を拝領はいりょうした。
日向国の都於郡を得た伊東祐持は、そのまま都於郡に下向した。
(伊東本家の日向国への下向)
伊東祐持は伊東本家として、先に日向国へ下向していた複数の伊東の分家の力を結集して日向国での「伊東氏」としての勢力を増大させようと画策した。
しかし、長い年月をかけて日向国に土着化し、本家とは疎遠になっていた伊東の分家(田嶋氏など)にとっては、その動きは「圧迫」でしかなかった。
危機感を強めた田嶋氏は、自身の権威を高める目的で康永四年(1345)頃に東福寺派の寺院である大光寺だいこうじ(宮崎県宮崎市佐土原町上田島)を創建し、また軍事面における強化策として「小城」と呼ばれる城を建築して移り住んだ。
この城の場所は、鶴松山かくしょうざん(現在の佐土原城の場所)ではなく、より海寄りの一ツ瀬川沿いの場所であった。
新たに小城を建築した田嶋氏であったが、伊東本家の圧力に対する不安は消えず、永享六年(1434)から文安元年(1444)に田嶋休祐きゅうすけが、鶴松山かくしょうざん(現在の佐土原城の場所)にさらに堅固な城を建てた。
この当時の城構えは、江戸時代において「松尾丸」と呼ばれていた部分のみの城であったと考えられている。
城は、構築した一族の名をとって 田嶋之城たじまのしろと呼ばれた。(正確には、城が建っている山の名前も含めて、鶴松山かくしょうざん 田嶋之城たじまのしろである)この当時において「佐土原城」という呼称は存在しない。
(田嶋之城の成立)
佐土原城縄張1

伊東祐賀すけよしが田嶋氏(田嶋之城)を乗っ取り、佐土原氏を名乗る

田嶋之城たじまのしろを建てた田嶋休祐きゅうすけであったが、彼には跡取りの男子がおらず、あるのは姫一人だけであった。
そこで田嶋休祐は、都於郡とのこおりの伊東本家の当主である伊東祐堯すけたかの弟、伊東祐賀すけよし娘婿むすめむことすることにした。
しかし、婚姻を結ぶ前に田嶋休祐は急死した。その後、約束通り娘婿として田嶋家に入った伊東祐賀は、田嶋姓を名乗らずに兄の旧姓である佐土原氏を名乗り、事実上、田嶋氏を滅ぼすに至った。田嶋氏の家臣は田嶋之城から追い出され、小城に移された。
(田嶋氏の滅亡)
<この乗っ取り劇に関しては、管理人が参考にした「佐土原城 天守を持った山城の歴史(鉱脈社)」に面白い推論が展開されている>
この後、田嶋荘を含む一帯の地域は、支配者の名前を取って佐土原と呼ばれるようになったと考えられる。
また、田嶋之城も「佐土原氏の城」という意味合いで佐土原城と呼ばれ始めたと考えられる。
(佐土原城の成立)
このとき城の呼び名は変わったが、実質は田嶋之城の城構えのままである。 佐土原城縄張2

伊東本家が名実共に佐土原城を支配する

さらに文明十二年(1480)には、伊東本家の当主であった伊東祐国が、形式的に佐土原氏の当主の養子となった。
佐土原氏の養子となった伊東祐国であるが、それは形式上のことであり、それまでと同じく伊東氏を名乗ったので、佐土原城の主は名実ともに伊東氏となった。
そもそも、伊東祐国は佐土原姓を名乗って田嶋氏を滅ぼした伊東祐賀すけよしおい(伊東祐賀の兄であり当主であった伊東祐堯すけたかの子供)である。このことから、田嶋氏滅亡後の伊東本家による佐土原城支配の完成がいかに迅速だったかが分かる。
また、これよりも先に伊東本家は、田嶋伊東氏以外の分家である、木脇伊東氏と門河伊東氏を滅ぼしているので、伊東祐国の代において日向国における伊東の分家は掃討されたこととなった。
(伊東本家による佐土原城支配の完成)
このときは城の呼び名は伊東城などとは呼ばれず、佐土原城のままである。また、城構えも田嶋之城のままである。

佐土原城(田嶋之城)が焼失し、鶴松山 南之城かくしょうざん みなみのしろとして新築される

天文五年(1536)伊東祐清いとうすけきよ(後の伊東義祐いとうよしすけ)は、激しい跡継ぎ争いの闘争を勝ち抜いてようやく当主となり、佐土原城(実質は田嶋之城)に入城した。
そもそも、伊東本家の本拠地は日向国に下向してきてからずっと都於郡とのごおり城であるので、家督を継いだ伊東祐清が入城すべきは都於郡城であった。
それでもなぜ佐土原城に入ったのか?その当時、都於郡城は火災で焼失していたという説もあり、家督をめぐって争った政敵が多く居る都於郡城を嫌ったとも考えられるが、判然としない。
しかし、伊東祐清が佐土原城に入った翌年12月、佐土原城(田嶋之城)は火災で焼失してしまった。
佐土原城縄張3
伊東祐清は仕方なく宮崎城へ移った。
彼はこの年、将軍であった足利義晴あしかがよしはるの名前の中の一文字を与えられ伊東義祐いとうよしすけと改名し、従四位下じゅしいのげ(官職:朝廷における序列のこと。この当時は有名無実化しており、単なるステータスに過ぎない)に任ぜられた。
伊東義祐は天文六年から十二年(1537から1543)にかけて、焼失した佐土原城(田嶋之城)が建っていた鶴松山かくしょうざんの跡地につながる尾根に、南之城みなみのしろ(正式には鶴松山南之城かくしょうざん みなみのしろ)と呼ばれる城(曲輪)を新築して本拠地とした。
また、焼失した佐土原城(田嶋之城)の跡地には、南之城を守るための出城でじろ(というか曲輪か?)を新築した。この城(曲輪)は松尾之城まつおのしろ、または高尾之城たかおのしろと呼ばれた。
(※)南九州では、城の曲輪くるわ(一の丸、二の丸など)を「城」と呼ぶ(一の城、二の城など)風習があり、「○○城」と記述されているときに、それが曲輪の事を指しているのか、独立した1つの城全体を指しているのか誤解しやすいので注意!
伊東義祐は、本拠地として建築した南之城に入城した。
しかし、「佐土原城」という呼称は定着しており、南之城の新築後も相変わらず「佐土原城」と呼ばれていた。
つまり、この時点では、正式名称は「鶴松山南之城」で、通称が「佐土原城」といった感じである。(難しい・・・) 佐土原城縄張4
南之城みなみのしろが築かれたことにより、鶴松かくしょう山の地形を十分に利用した山城となったことが分かる。
標高50メートルを超える南之城から、松尾之城までの山腹のいたるところに曲輪くるわ(防衛拠点)が配置されている。
ご覧の通り、山ひだのどの部分から攻めかかっても複数の曲輪から攻撃を受けることが予想される。
伊東義祐が心血を注いだだけあってなかなかの山城である。

新しく生まれ変わった鶴松山 南之城かくしょうざん みなみのしろ(佐土原城)と周辺の賑わい

天文十七年(1548)に、伊東義祐は嫡子の夭折ようせつ(若くして死ぬこと)に際して、出家して三位入道さんみみゅうどうと号した。
さらに天文二十三年(1554)には、伊東義祐が南之城(佐土原城)から都於郡とのこおり城へ移った。
つまり、伊東家の本拠地が、長年の内紛を経てようやく都於郡城に戻ったのである。南之城(佐土原城)は伊東義祐の隠居城となり、南之城(佐土原城)には代官が置かれた。
伊東義祐は京都風を好んだため、南之城の城下(佐土原の町)は京都風に作られ、非常に賑やかだったという。大仏や、金柏寺きんぱくじがつくられたのもこのころである。
その頃、伊東氏は飫肥おび城をめぐって、薩摩、大隈地方の島津氏と激しい抗争を繰り返していた。
永禄十一年(1568)、伊東氏はついに飫肥を奪取することに成功して、日向国のほぼ全域を支配地域とした。伊東氏の黄金期の到来である。
伊東氏は「四十八城」と呼ばれる48の城を日向国内のさまざまな拠点に構えて、日向国内の支配体制を確立した。都於郡城と南之城(佐土原城)は、その四十八城の中心的な城という位置づけであった。


以前は2006年1月時点での最新の学説を掲載していたが、
2011年7月に出版された「佐土原城 天守を持った山城の歴史」(鉱脈社刊 末永和孝著)を参考に大幅に修正した。

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