
佐土原城を作ったのは、伊東氏(の一族)である。伊東氏とはどのような一族だったのか?
伊東氏と佐土原の関係は、13世紀の初頭に伊東祐時が日向国田島荘(現在の佐土原)の地頭職を得たところから始まる。
ちなみに、伊東祐時は、伊東姓を名乗る前は、工藤祐時と名乗っていた。
その伊東祐時の四男である伊東祐明は、一族を引き連れて日向国田島荘に下向(→京都や鎌倉といった、日本の中央と言われる地域からそれ以外の地方へ移住すること)した。
その後、伊東祐明の一族は自らの領地の地名を名乗り、「田島殿」と呼ばれていたようである。(田島氏が興る)
その田島氏は、建武二年(1335)に大光寺を創建するなど、しだいに勢力を強めていった。
当時、田島氏が城を構えた場所は鶴松山(現在の佐土原城の場所)ではなく、より海寄りの、一ツ瀬川沿いの場所であった。その城は古城と呼ばれている。
鶴松山(現在の佐土原城の場所)に最初に城が建てられたのは14世紀の半ば頃である。
建てたのは田島氏であり、当時は田島城と呼ばれていたようである。
このように権勢を誇っていた田島氏であるが、田島氏の本家筋である伊東氏から、伊東祐持が都於郡城に下向し、日向国での勢力拡大策をとり始めると、田島氏は次第に勢力を弱めていった。
応永三十四年(1427)頃、勢力が弱まっていた田島氏は、ついに伊東本家筋に田島城(現在の佐土原城)をのっとられてしまう。
つまり、本家の伊東祐立の四男である、伊東祐賀が田島家の養子として田島家に入ったのである。
田島家を相続した伊東祐賀は田島という姓を名乗らずに、「佐土原」という姓を名乗り、田島城に入城した。
(田島氏が田島城から追われる・佐土原氏が興る)
この後、田島荘を含む一帯の地域は、支配者の名前を取って佐土原と呼ばれるようになったと考えられる。
また、田島城も「佐土原氏の城」という意味合いで佐土原城と呼ばれ始めたのではないかと考えられる。
つまり、正式名称は「田島城」で、通称が「佐土原城」という感じである。この辺りが城の名前の難しいところである。
さらに文明十二年(1480)には、伊東本家筋から伊東祐国が佐土原氏の養子に入り、
田島城とその領域を支配下に置いた。
こうして、田島城(佐土原城)は伊東本家筋の支配するところとなった。
時は100年以上進んで、天文五年(1536)、伊東家の当主である伊東祐吉が逝去し家督を相続(→一家の長として家を継ぐこと)した伊東祐清(後の伊東義祐)は、田島城(佐土原城)に入城した。
そもそも、当時の伊東家の本拠地は都於郡城であったので、家督を継いだ伊東祐清が入城すべき城は都於郡城であった。
しかし、その当時、都於郡城は火災で焼失して再建されておらず、伊東祐清は仕方なく田島城(佐土原城)に入ったのである。
悪いことは続くもので、伊東祐清が田島城(佐土原城)に入った翌年、今度は田島城(佐土原城)までもが火災で焼失してしまった。
伊東祐清は仕方なく宮崎城へ移った。彼はこの年、足利義晴の名前の中の一文字を与えられ伊東義祐と改名した。
伊東義祐は天文十一年から十二年(1542から1543)に、田島城(佐土原城)の跡地に新たに城を新築した。
城は山の名前を取って鶴松城と名づけられた。伊東義祐は新築の鶴松城(佐土原城)に入った。
しかし、この時代になると、「佐土原城」という呼称も定着しており、鶴松城の新築後も「佐土原城」と呼ばれることが多かったようである。
つまり、この時点では、正式名称は「鶴松城」で、通称が「佐土原城」といった感じである。(難しい・・・)
伊東義祐は、飫肥城をめぐって、薩摩、大隈地方の島津氏と激しい抗争を繰り返していた。
永禄十一年(1568)、伊東氏はついに飫肥を奪取することに成功して、日向国のほぼ全域を支配地域とした。伊東氏の黄金期の到来である。
伊東氏は「四十八城」と呼ばれる48の城を日向国内のさまざまな拠点に構えて、日向国内の支配体制を確立した。都於郡城と鶴松城(佐土原城)は、その四十八城の中心的な城という位置づけであった。
伊東家の当主は、伊東義祐の孫である伊東義賢になっていたが、伊東義祐はその後見(→教え導く人)として権力を握っていた。
当主となった伊東義賢は都於郡城の城主であったので、後見人である伊東義祐は鶴松城(現佐土原城)から都於郡城に移り、鶴松城(佐土原城)には代官が置かれた。
つまり、伊東家の本拠地は都於郡城に戻り、鶴松城(佐土原城)は伊東義祐の隠居城となった。
伊東義祐は京都風を好んだため、鶴松城下(佐土原の町)は京都風に作られ、非常に賑やかだったという。大仏や、金箔寺がつくられたのもこのころである。

見てお分かりのように、鶴松山の地形を利用して、山腹のいたるところに曲輪(→防衛拠点)が配置されている。
左手の松尾丸から、南の城、本丸と標高が高くなり、本丸部分は標高60メートルを超える。
水の手(飲料水確保用)の池を確保しつつ、この池を本丸の背面の防御にも利用しているようである。
山ひだのどの部分から攻めかかっても複数の曲輪から攻撃を受けることが予想される。
伊東義祐が心血を注いだだけあって堅固な山城である。
(本丸部分の縄張りには異説があるが、その話は別の機会に・・・)
現在の佐土原城。(南の城から本丸へ続く道)
許可を得て実際に足を踏み入れると、かなりの要塞であることが分かる。さすが日向全域を支配した大名が建てた城である。
現在はうっそうとした竹林となっている。
元亀三年(1572)、伊東氏は島津氏の領地である加久藤城(宮崎県えびの市)を攻めた。いわゆる木崎原の戦いである。兵士の数では島津勢を圧倒する伊東勢であったが、島津義弘らの奇襲作戦に破れ、一族の主だった武将が数多く戦死するという大敗北を喫した。
この大敗北により、伊東氏の権勢にかげりが見えはじめた。その後天正五年(1577)には、島津氏に日向国全域を奪われて、伊東義祐らは豊後へ逃げ落ち、鶴松城(佐土原城)も島津氏の支配下に入った。(この頃の様子は、日向国合戦記—高城の合戦(天正六年)伊東義祐 政道を怠り、民や諸将 大いに嘆くに詳しく記述している。)
当時の日向国内は、島津氏の支配下に入ってはいたが、まだ伊東の残党との小規模な戦闘が続いていたようである。
島津氏は、配下の諸将に命令して、交代で薩摩や大隈から軍勢を率いて日向国に遠征し、日向国に駐屯(→軍隊が出先に長期間滞在すること)させていたようである。
このような情勢であった天正六年における鶴松城(現佐土原城)の役割は、島津方の諸将が、交代で薩摩・大隈から遠征してきて駐屯する城となっていたようである。
その年天正六年(1578)に大友氏が日向国侵攻(耳川の合戦・高城の合戦)を行ったが、島津氏はこれを撃退した。これにより島津氏は、遂に佐土原を含む日向国全域を完全に掌握した。
このように島津氏が日向国を完全に掌握した後は、鶴松城(現佐土原城)は前線の駐屯地としての役割ではなく、日向国を統治する中心人物が入る城となった。つまり、当時の島津家当主 島津義久の腹違いの末弟である、島津家久が城主となったのである。
天正十五年(1587)、豊臣秀吉は九州に侵攻した。さしもの島津氏も、数十万という豊臣秀吉の軍勢には敗北し、豊臣秀吉に降伏した。
その直後、鶴松城(佐土原城)主である島津家久が急死する。この死因については、現在でもいろいろな憶測が飛んでおり、ミステリーの一つとなっている。(豊臣方の暗殺、島津方の暗殺、島津方から死ぬように命じられた、単なる病死・・・など)
島津家久の急死により、鶴松城(佐土原城)は島津家久の息子である、島津豊久が城主となった。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、鶴松城主(佐土原城主)の島津豊久は、伯父である島津義弘に従って西軍として参戦した。
西軍となった鶴松城(佐土原城)は、日向国内で東軍に味方する軍勢に攻められたが、留守を守る武将の奮戦で何とかこれを撃退している。
関ヶ原において西軍が敗れると、島津豊久は伯父である島津義弘を逃がすために身代わりとなって戦死した。
「城主が徳川家に反抗して戦死した」という形になってしまった鶴松城(佐土原城)および一帯の領地は、徳川家康の家臣、庄田三太夫が一時的に預かるという形になった。つまり、佐土原は、徳川家により没収されたのである。
その後、佐土原に封じられていた島津豊久の一族及び家臣は、鹿児島の島津本家のはからいにより、鹿児島の永吉に封じられた。
島津家久・豊久親子の墓が、宮崎県の佐土原と鹿児島県の永吉にあるのは、そういった経緯が関係している。
その後、島津氏の必死の外交交渉により、徳川家は佐土原を島津氏に返した。
慶長八年(1603)に、島津以久(島津征久とも書く)が佐土原藩の初代藩主に任命され鶴松城(佐土原城)に入城した。
ちなみに地元では、この島津以久から始まる家系の島津氏に対して、島津家久、豊久親子の家系の島津氏を「前島津」と呼ぶこともある。
鶴松城(佐土原城)は島津以久の時代までは山城(→山の上に建つ城)であった。
寛永二年(1625)に二代藩主島津忠興の代になると、山の上の建物を壊して、山の下にある二の丸に館を移した。
この際に正式名称が松鶴城(鶴と松をひっくり返しただけ・・・)となり、通称が佐土原城となる。
ただし、この頃になると、国や地域の名前で城を呼ぶ方が主流となっていたようで、「佐土原城」という呼称の方が正式名称であったと考えられる。
現在の佐土原城本丸部分。
寛永二年(1625)に廃棄。
佐土原城は明治維新までずっと佐土原島津氏の居城であったが、明治三年(1870)に広瀬に移転したため、全て破壊された。
一方、広瀬の城もその後の明治政府の方針により取り壊されてしまった。
結局のところ佐土原には、どこにも城が残らなかった。