日向国 謎の事件簿−臼杵統景 亡霊 詠歌の事−

高城合戦後に起こったという奇跡体験(スピリチュアル版)


本編両雄ついに高城川にて激突す(高城の合戦)で見たように、
高城川原での決戦に敗れた大友勢は、数万といわれる死者を日向国に残して敗走した。
この敗戦による大友方の人的被害は甚大であり、大友領では、当主、嫡男ちゃくなん(→あととり)を亡くして悲しみに暮れる一族がかなりの数に上ったという。
ここでは、そのような一族のひとつ、大友氏の重臣である臼杵うすき氏にまつわる逸話を紹介する。
この事件は、豊薩軍記、大友興廃記に記述されている。

臼杵統景うすきむねかげ 亡霊 詠歌の事

臼杵統景うすきむねかげ高城合戦にて討死

高城の近くの合戦において、豊後勢は緒戦で勝利を収めたが、最終的には敗北した。
その敗北による戦死者の中に、臼杵うすき越中守えっちゅうのかみ鑑速あきすみの子息である、勝之太郎統景むねかげが含まれていた。
当時、臼杵統景うすきむねかげは18歳の若者であったが、大友の諸勢の中においても人目を引くほどの美男子の武者であった。
高城の合戦における臼杵統景は、茶色の着物に、金色の板を赤色のひもで"おどした"(=縫いあわせた)よろいを身に付け、
立派な鍬形くわがた(=かぶとの前面につける飾りで、漢字の"八"の字を、上下さかさまにしたような形の飾りのこと)をあしらった兜をかぶり、毛の長さが15cm位の鹿毛かげ(体がこげ茶色で、たてがみと足の先が黒い)の馬に乗っていた。
彼は高城における最終決戦が始まると、先頭に立って攻撃に加わり、敵も味方も驚かせるほどの戦いぶりを見せた。
しかし大友勢が敗れると、臼杵統景も、忠義の家臣31人と共に島津勢に討ち取られてしまった。
高城での戦いが終わり、勝利を収めた島津家久しまづいえひさは、討ち取られた臼杵統景の首を見た。
島津家久は、臼杵統景の(首を取られた状態の)遺体をその場に運んで来させ、首と遺体をじっと見てこう言った。
「何ということか、この人(臼杵統景)は歳もまだ16歳くらいに見える。しかし、容姿や身につけている物を見るに、身分の高い武者のようだ。・・・それにしてもなんという涼しげな死に顔だろうか。」
この首の人物が気になった島津家久は、この首の人物の名前を知っている者を探させた。
すると、島津勢に生け捕りにされた大友の将がその人物を知っているということが分かった。
その大友の将は島津家久らにこう言った。
「このお方こそが臼杵鑑速うすきあきすみの子息の、勝之太郎統景です。歳は若いですが、文武両道で芸術にも造詣ぞうしが深い人物です。
特に、能については抜きん出た才能をお持ちで、金春八郎大夫という師についておられました。」
これを聞いた島津家久やその場にいた家臣は、「ああ、この人がうわさに聞く臼杵統景か。」と言い合った。
特に島津家久は情に厚い武将であったので、臼杵統景の短い生涯に思いをはせて涙を流した。
そもそも、臼杵統景は父である臼杵鑑速が死去したために、弱冠15か16歳にして臼杵家当主となっていた。
その臼杵統景が高城の合戦にて戦死したことにより、臼杵家は断絶の危機にさらされていたが、
臼杵家は、臼杵統景の父である臼杵鑑速の弟の息子(つまり臼杵統景の従兄弟)を養子として迎えることにより断絶の危機を回避した。

時は流れて3年後 高城の近く

高城合戦の3年後の晩秋に、ある修験者しゅげんじゃが薩摩(鹿児島)から日向(宮崎)に入り、高城の近くの山道を歩いていた。
その日はもう陽が暮れかけていたが、泊めてもらえそうな家もないので、彼は松の木の下で野宿することにした。
夜になって修験者は、地面に散らばる白骨が冷たい月明かりに照らされているのを見つけた。
彼は『ああ、数年前の合戦で多くの人が死んだ高城川原とはここか・・・』と思いながら数珠じゅずを握り、杜甫とほの「兵車行」という漢詩を一人で口ずさんでいた。
そのとき突然、山のほうから17か18歳くらいの美男子が現れた。
その美男子は短冊を結びつけた紅葉の枝を修験者に手渡して、こう言った。
「豊後(大分)へ行くことがありましたら、"臼杵"という名字の一族の者にこの短冊を届けてください。」
言い終わるか終わらないうちに、その美男子は煙のように消えてしまった。
不思議に思った修験者が月の光でその短冊を読んでみると、題名はなく、次のように書いてあった。
ゆきめぐり むつのちまたを いでやらぬ 身ののちの世を とふ(問う)よしもがな  統景
【解釈】私は成仏できずに六道ろくどう(迷いの世界)をさまよっております。この後どうなるか考えも及ばない状態です。
修験者はこの短冊をお守り袋に入れて豊後に行き、臼杵という名字の一族を探した。
すると、臼杵統景の従兄弟である臼杵鎮尚(臼杵統景の跡を受けて臼杵家を継いだ人物)に会うことができた。
修験者は高城の近くでの出来事を臼杵鎮尚に話し、預かった短冊を手渡した。
臼杵鎮尚はこの短冊を見て、「これはまさしく統景殿の筆跡ではないか!こんな乱世ではあるが、このような奇跡は聞いたことがない」と涙を流した。
臼杵鎮尚はこの修験者に臼杵統景の供養の祭礼を執り行わせ、統景の菩提ぼだいとむらわせた。
その後、臼杵統景が臼杵鎮尚の夢の中に現れ、「私は六道の中の修羅道を離れて、極楽浄土へ行くことができました」と告げたという。


分析いろいろ

臼杵統景の父、臼杵鑑速

臼杵統景うすきむねかげの父である臼杵鑑速うすきあきすみは、大友家の全盛期を支えた重臣であり、実力者であった。
大友側の文献を読むと、『臼杵鑑速の死後、田原親賢たわらちかたか(紹忍)が、大友宗麟にへつらって権勢を振るい、大友家中を混乱させた』という記述が随所に見られる。
臼杵鑑速が健在であれば、立花道雪たちばなどうせつ斉藤鎮実さいとうしげざねらとともに日向国出兵に反対して、大友宗麟に日向国出兵を諦めさせていたかもしれない。
仮に日向国出兵していたとしても、高城包囲の陣には臼杵鑑速が大将として陣取っていたに違いない。
大友宗麟の信任も厚く、さらに大友家の外交を任されていた臼杵鑑速がにらみを利かせているとあっては、田北鎮周たきたしげかねも独断専行などできなかったであろう。
また、外交の得意な臼杵鑑速のことであるから、早々に高城あたりを国境として和平を結び、日向国の北半分を確保して軍を引いていたかも知れない。
それにしても、そのような優秀な男の秘蔵っ子であった臼杵統景に対する周囲の期待は絶大なものだったことは想像に難くない。
高城合戦において、佐伯惟教さいきこれのり(宗天)、田北鎮周、斉藤鎮実らの城主レベルの現役の武将や、臼杵統景のような未来を担う武将が多数討ち死にした大友家の人的損害は、想像を絶するほどの大ダメージであったはずである。
それは、数万の兵を失うよりも深刻で、回復が難しいダメージであったはずである。

島津家久の評判

この文献は大友側の文献であるが、島津家久について「情けに厚い武将」という高評価で書かれている点が興味深い。

佐土原城 遠侍間 佐土原城 遠侍間 リンク

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