その二 島津義弘と伊集院忠棟
惟新公自記に見え隠れする「大人の事情」


伊集院忠棟いじゅういんただむね 同心無キニ依リ・・・』 惟新公自記における不可解な記述

島津家に関する「惟新公いしんこう自記」という文献の中にも高城合戦の記述があるのだが、そこには一部不可解な記述があることをご存知だろうか?
それは、高城合戦の最終決戦の時に「伊集院忠棟いじゅういんただむねが命令にそむいた」という、他の文献では見られない内容の記述である。
ここでは、この記述の真偽や真相について当時の島津家の事情などを考慮しながら考察してみたいと思う。

惟新公いしんこう自記とは

そもそも「惟新公自記」(惟新公御自記とも言われる)とは、晩年の島津義弘しまづよしひろが自分の生涯の記録を自ら書き残した文献である。
この文献には、彼が参戦した高城の合戦の記述も収められている。
ちなみに、「惟新公」とは島津義弘のことである。

惟新公自記に見る高城合戦

以下に訳文を示す。
豊後の大友義統おおともよしむねは、九州の6国を支配していたのでおごり高ぶっていた。
(→大友義統は大友宗麟おおともそうりんの子。当時の大友家当主は義統であり、宗麟は隠居の身である。)
そして大友義統は、島津家に日向国を追われた伊東義祐いとうよしすけと日向国を奪還する計画を練っていた。
天正六年十月二十日、大友義統は大軍を指揮して日向国の高城に攻め寄せ、城下を焼き払い、城の防御用の柵を破壊して城を奪おうとした。
先代の中務大輔(島津義弘の弟である島津家久しまづいえひさのこと)や、日向国に駐留していた島津の諸将は高城に篭城ろうじょうし、策略をめぐらせて戦った。
彼らは、大友勢を城郭の近くまで引き寄せて鉄砲で銃撃を行い、数え切れない程の大友方の将兵を撃ち殺した。
大友勢はこれを見て力攻めをあきらめ、高城の近くに柵に囲まれた陣地を構築して、そこにこもった。
十一月十一日に、予(島津義弘)は命令を下し、松尾の陣(→これは松原の陣[大友陣]のことであろう)の通路に伏兵を配置して戦い、1000名の敵を討ち取った。
また、すぐに松尾の陣に攻めかかり、松尾の陣を完全に破壊した。これを見た島津方の軍勢は前進し、惣陣(→大友本陣のこと)を取り囲んだ。
予(島津義弘)は、この状態を見て小丸川おまるがわを前面に見る形(敵と川を挟んでにらみ合う形)で陣を敷くように命令したが、伊集院忠棟いじゅういんただむねが命令に従わなかったので、いくつかの軍勢が小丸川を後ろにして(川を渡って敵と同じ側に)陣を敷いてしまった。
高城合戦戦況図
翌日の未明、予想通り大友勢が攻撃を仕掛けてきた。
小丸川を後ろにして陣を敷いていた島津方の軍勢は、大友の大軍の猛攻に耐え切れずに敗走し、川の深い浅いも関係なく小丸川に飛び込んで味方がいる対岸に逃げ渡った。
この戦闘で、本郷久盛、本田親治があっという間に討死した。
予(島津義弘)は小丸川を前にして陣を敷いていたので、川を渡ってきた大友勢と戦い、対岸まで押し戻して敗走させた。
これを見た伊集院忠棟は、先走りをやめて味方の軍勢と歩調を合わせて協力した。
勇猛である大友勢は強敵ではあったが、武運が尽きてしまうと、なすすべも無く敗走して小丸川に逃げ込み、人馬とも深みに溺れて沈んでしまった。
(惟新公自記)

記述の分析

上記訳文の太字部分が問題の部分である。
『伊集院忠棟が命令に背いたので島津勢の一部が小丸川の対岸に布陣し、彼らは翌日に討死してしまった。』
『戦いも終盤になった頃にようやく伊集院忠棟は勝手な戦いをやめて協力した。』と書いてある。
これらの内容は、他の文献には見られない記述である。
小丸川の対岸に布陣した、北郷ほんごう久盛、本田親治らが誰の命令でそこに布陣したのかは、正確には分からない。
本田親治は島津義久の8人の「御使衆」に名を連ねる程の人物である。そのような人物が、さしたる理由も無くこのような危険な場所に陣取るとは思えないので、何か理由があったに違いない。
ものの本では、「本田、北郷ほんごう勢は、いわゆる釣り野伏のおとり部隊」とする説が多く見られる。
しかし私は違った見方をしていて、「本田、北郷勢は高城の側面を固めて、島津本陣と高城の間の連絡路を大友勢により遮断されるのを防ぐための、押さえの部隊」と見ている。
その判断の理由は、次の分析からである。(下図参照)
高城合戦戦況図
もし北郷、本田勢が陣取ったエリアに大友の先鋒部隊が進出して陣を構築したとすると、島津勢は高城との連絡を再び断たれてしまう。
そしてそれを突破するには、「敵前で小丸川を渡り、大友勢の待ち構える対岸に上陸する」という危険を冒して、更に大友陣を破壊する必要が発生する。
また、渡河とかしながらの進軍においては、島津勢の特色である鉄砲も自由には使えないので非常に戦いにくい。
これらのことから、本郷、本多勢が陣取った中州のような部分は、島津方としては是非とも押さえておきたいエリアであったはずである。
つまり私は、この布陣は伊集院忠棟の独断による、先走りの結果とは考えていない。
仮にこの布陣が、功をあせった伊集院忠棟の先走りによるものであれば、伊集院忠棟本人か、伊集院一族の誰かが本田、北郷勢と共に陣を敷いているはずだが、対岸に陣を敷いたとされる諸将の名の中に伊集院一族の名が見られる文献は見当たらない。
ではなぜ島津義弘はこのような記述を残したのだろうか?
私はこの記述は「ある意図を持って故意に曲げられた」記述であると考えている。
そしてそのように書かざるを得なかった島津義弘の心情に迫りたいと思う。

伊集院いじゅういん 右衛門太夫うえもんたゆう 忠棟ただむねという武将

伊集院忠棟いじゅういんただむねは、押しも押されもせぬ島津家の家老職を務めた重臣である(であった)。
高城合戦の本編でも記述したが、第一次石ノ城攻防戦にても中心的な働きをした。
また、最後の高城川原での決戦のときも、勢いに任せて突進してくる大友勢を島津義弘しまづよしひろ島津歳久しまづとしひさと力を合わせて食い止め、島津征久しまづゆきひさが大友勢の側面を衝くお膳立てをするという功績をあげている。
彼は、そのような戦う武将としての一面の他に、茶人としても一流であったようである。
そのような伊集院忠棟の運命が変わり始めるきっかけとなったのが、豊臣秀吉の九州征伐であった。

豊臣秀吉の九州征伐と伊集院忠棟の降伏

伊集院忠棟はその茶道の才能からか、九州征伐以前から島津家と豊臣政権との交渉役を担っていたようである。
そして九州征伐が始まり、豊臣勢の圧倒的な優位を見た伊集院忠棟は、いち早く降伏を行った。伊集院忠棟は自ら人質となったのである。
これを裏切り行為と見るか、島津家の存続を願っての行為と見るかは評価が分かれる。
また彼は、島津義弘、島津家久しまづいえひさに島津家存続の為の降伏を勧めた。これにより島津家久が降伏した。
当初、島津義久しまづよしひさ、島津義弘はこの「独断」による降伏を認めない立場を取っていたが、結局は先に降伏した伊集院忠棟や島津家久の仲介により降伏し、島津家の存続が叶ったのである。

伊集院忠棟の大名化と島津家中からの反発

さて、豊臣秀吉が服属させた大名をコントロールするためによく使った政治手法がある。
それは、まず服属させた大名の領地の一部を切り取る。
そして服属させた大名の配下の重臣を、大名に取り立てて独立させ、切り取った領地を与えるといったものである。
大名に取り立てられた(元)重臣は、服属した大名の内部事情が完全に分かっている。(それまで自分が重臣として属していた家中のことだから当然である)
豊臣政権はこのような人間を、服属した大名を見張る「お目付け役(好意的に解釈しても窓口役)」として利用したのである。
(元)重臣は、独立大名として服属させた大名の旧領に居座って、豊臣政権の代わりににらみをきかせるのである。
これは、服属大名の政治的、軍事的情報を完全に掌握できる非常に上手い手法である。
実はこの手法の例には、毛利家から独立した小早川家などがある。
一方で、この手法に乗らず、大名への取立てを辞退した例は、伊達家の重臣、片倉景綱かたくたかげつな(小十郎)があげられる。
では島津家ではどうだったのか?
島津家中では伊集院忠棟に白羽の矢が立った。伊集院忠棟は大名として、形式上は島津家から独立したのである。
この動きは島津家としては認められるものではなかった。
しかしその後、伊集院忠棟は8万石を有する大名として、豊臣政権(石田三成)の島津氏に対する命令を、島津家中で実行させる役目(嫌われ役)を果たすのである。
ちなみにこの当時の島津義久しまづよしひさ、島津義弘への割り当ては10万石、島津征久しまづゆきひさにいたっては1万石である。
当主の島津義久を含めての、島津家中における伊集院忠棟に対する反発や妬みは、猛烈なものとなった。

伊集院忠棟の斬殺と庄内の乱

そんな折、豊臣秀吉が死去した。すると、慶長四年の三月に大事件が起こった。
時の島津家当主の島津忠恒しまづただつねが伊集院忠棟を斬殺したのである。
島津家の見解は「伊集院忠棟が、『当主である』島津家をないがしろにしたので『誅殺ちゅうさつ』(→何かしらの権利・大儀がある者が、処刑を行う事)した」というのであるが、これは筋が通らない。
伊集院忠棟は、公式に豊臣政権に認められた独立大名である。
冷静に判断すると、独立大名(他国の国主)をいきなり呼びつけて斬ることは「誅殺」とは言えない。これは「島津忠恒による、他国の国主の暗殺」である。
しかし、ポスト豊臣政権を狙う徳川家康の仲介により、島津忠恒に対する処断は無かった。
時は関ヶ原合戦の直前である。徳川家康とすれば、島津家の中から豊臣政権の息のかかった人間(→伊集院忠棟)を取り除き、勇猛で知られた島津家を徳川陣営に引き入れようとしたとも考えられる。
一方、父である伊集院忠棟の殺害を知った嫡男の伊集院忠真いじゅういんただざねは所領に立てこもり、島津家に対して徹底抗戦を行った。
これが世に言う「庄内の乱しょうないのらん」である。
この戦いは、九州を制した島津勢の中核であった伊集院勢と、その他の島津諸将との戦いとなった。
もとより伊集院忠真いじゅういんただざね自身も猛将である。さしもの島津勢も苦戦し、乱は長期化した。
しかし9ヶ月以上の抵抗の末に、徳川家康の調停により伊集院忠真は降伏した。

伊集院忠真の暗殺

しかし降伏した伊集院忠真も父である伊集院忠棟同様に暗殺されてしまう。
伊集院忠真は日向国野尻にて”狩り”に誘われる。
そして、その”狩り”の途中に、鉄砲の名手である穆佐むかさ衆の淵脇平馬に”誤って”撃ち殺されてしまうのである。
このとき、平田平馬という島津家側の人間が伊集院忠真と同行していたようであるが、彼も穆佐衆の押川治衛門に槍で刺殺されている。
事件当時に、伊集院忠真と平田平馬は、お互いの馬を交換して乗っていたという記録から、実行犯は殺害対象が絞り込めずに、やむなく二人とも殺害したようである。
平田平馬まで”槍で刺殺”している時点で、これは”誤って”撃ち殺した事故ではない。
完全に島津本家の命令による組織的な暗殺である。
伊集院忠真に同行していた家臣は、これが暗殺であることを悟り、刀を抜いたようである。しかし、それは”逆上した伊集院忠真の家臣が手向かった”とされ、彼らもその場で殺害されてしまう。
さらに、伊集院忠真を撃ち殺した淵脇平馬はすぐに切腹し、完全に真相は闇に葬られた。
一方、切腹した淵脇平馬の遺族は蟄居ちっきょ(→謹慎処分)となるが、数年後には城士じょうし(→鹿児島城下に住む上級の島津家臣)に取り立てられている。
このとから、「この一連の事件は完全に島津家が仕組んだ暗殺で、その実行のために穆佐むかさ衆の淵脇平馬や押川治衛門が捨て石となり、その功労に報いるために遺族を取り立てた」という解釈は間違いないと思われる。
このような背景から、島津家中における、伊集院忠真及び伊集院忠棟の公式見解は、『彼らは島津家の逆賊』であり、また同時に『触れてはいけないタブー』な存在となった。
つまり、徳川家康の調停によって和解した相手(伊集院忠真)を暗殺したことがばれると、ただ事ではすまないのである。
ちなみに、後の佐土原藩初代藩主となる島津征久ゆきひさは、佐土原藩主になるにあたり、「この暗殺について口外しない」という起請文きしょうもん(→神に誓う文書)を書かされている。

このようにして、島津家の文献に現れる伊集院忠棟、忠真親子に関する評価は最悪となった。

伊集院忠棟が逆賊となった後に書かれた惟新公自記

惟新公自記は島津義弘の晩年、つまり、庄内の乱の後に書かれている文献である。つまり、「伊集院忠棟は逆賊である」という公式見解が出来た後に書かれた文献である。
私は、この理由から、高城合戦における伊集院忠棟の行動の記述が曲げられたのであろうと考えている。
客観的な分析は以上である。さて、ここであえて情緒にひたってみたい。

島津義弘と伊集院忠棟 親子

もともと、島津義弘と伊集院忠棟は親交が厚かった。また、息子の伊集院忠真の妻は島津義弘の娘である。
この一文を書き残すときの島津義弘の心中は、いかばかりだったであろうか?
心の中で、盟友の伊集院忠棟や、娘婿の源次郎(伊集院忠真のこと)に詫びつつも、御家の為に嘘を書き残したのではなかろうか?(そもそも最初に伊集院忠棟を殺害したのは、島津義弘の息子の島津忠恒[後の家久]である)
この惟新公自記の短い一文からは、そのような「大人の事情」に少し心が痛みつつも筆を進める、晩年の島津義弘の心情がにじみ出ているように思えてならない。

佐土原城 遠侍間 佐土原城 遠侍間 リンク

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