九州地方の本格的な戦国時代の幕開け


目次

  • 天正五年            伊東義祐  政道を怠り、民や諸将  大いに嘆く
  • 天正五年十二月  島津義久  伊東家を調略し日向国を制圧す。伊東義祐  大友氏を頼り豊後に逃る

  • 天正六年  二月  大友宗麟  伊東義祐の願いを聞き入れ日向国に侵攻す
  • 天正六年  四月  土持氏滅亡し、大友勢  日向国北部を制圧す
  • 天正六年  六月  島津忠長、島津征久、島津家久ら  石ノ城を攻む(第一次石ノ城攻防戦)
  • 天正六年  八月  大友宗麟  宣教師を伴って無鹿に至り、キリスト教王国建設に尽力す
  • 天正六年  八月  島津征久  上野城を攻む。  大友勢  耳川を渡って南進す
  • 天正六年  九月  島津征久、島津忠長、伊集院忠棟ら 石ノ城を攻む(第二次石ノ城攻防戦)

  • 天正六年  十月  大友の大軍  高城を包囲猛攻し、守将の島津家久、山田有信  これを死守す
  • 天正六年  十月  高城の守備兵  疲弊するも高城の守りを緩めず
  • 天正六年  十月  伊東の臣  長倉祐政  三納村にて衆を集め決起し周辺地域を蹂躙す
  • 天正六年十一月  島津家当主  島津義久  軍勢を率いて佐土原城へ着陣す
  • 天正六年十一月  島津義弘ら  高城を囲む大友勢を攻む(高城の合戦 前哨戦)
  • 天正六年十一月  運命の決戦前夜
  • 天正六年十一月  両雄ついに高城川にて激突す(高城の合戦)
  • 大友勢  日向より去り、島津氏日向国を完全に掌握す

  • −高城の合戦(耳川の合戦)おまけの豆知識−
    「耳川の合戦」という名前は本当は間違っている?!

    有名な「釣り野伏せ」で島津勢が勝利した「耳川の合戦」の主戦場は耳川ではない。主戦場は宮崎県児湯郡木城町にある、高城城下の高城川(現在の小丸川)である。
    耳川は宮崎県の県北を流れる川であり、高城川から20キロ近く北を流れる川である。
    私のような地元の人間は、高城城下の高城川(現小丸川)の川原で行われた合戦が、「耳川の合戦」と呼ばれると、土地勘があるだけに混乱してしまう。(下図参照)

    耳川の戦い 高城の合戦地図
    なぜ「耳川の合戦」と呼ばれるのか

    「耳川合戦」という名前は、『大友記』という文献に出てくる。
    私の推測は、大友記の「耳川合戦」という呼び名が広く知れ渡ったことにより、現在の呼び名の多数派に落ち着いているものと考えている。
    しかし、大友記の中の「耳川」として記述されている川は明らかに高城川(現在の小丸川)の誤記である。(高城城下での決戦場に流れている「高城川」を「耳川」と記述している)
    大友記の筆者はその誤記に基づいて、この合戦を「耳川合戦」と呼んでいるようである。これは本来ならば「高城川合戦」と呼ぶべきである。

    文献中に見られる地名の誤記はこれだけではなく、大友宗麟が本陣を張った日向国の「無鹿」について、「大隈国ムシカ」(→大隈は現在の鹿児島)との誤記も見られる。
    どうやら、この大友記の筆者(もしくは筆者に合戦の体験談を話した人)は、日向国にあまり土地勘がない人間のようである。そもそも、大友側の記述があやふやなのも仕方がない事なのかもしれない。慣れない日向国で敗戦の憂き目に遭い、混乱の中で命からがら逃げ延びたのであるから・・・。
    一方で、「耳川合戦」という呼び名も”全く見当違い”という程でもない。つまり、合戦の成り行きが「耳川を渡って進撃した大友勢が高城を囲む。→高城川原で決戦。→島津勢がそのまま耳川まで大友勢を追撃」という成り行きなので、この合戦を「耳川の合戦」と呼べなくもない・・・。(大友記の著者はその耳川の追撃戦については触れていないのだが・・・)

    ちなみに島津家に関係する多くの文献では、「高城の役」、「高城御合戦」、「高城御陣」などといった「高城・・・」と呼び方が使われている。
    この合戦に従軍していた人々が文献の中で「高城・・・」という呼び方をしていることからも、私は、この合戦は「高城(川)の合戦」と呼ぶべきであると考える。


    佐土原城 遠侍間 佐土原城 遠侍間サイトマップ

    日向国合戦史