天正六年八月
島津征久 上野城(穂北城)を攻む。大友勢 耳川を渡って南進す


島津勢は、上野城(穂北ほきた城)を攻略する

島津義久しまづよしひさは大友勢との対決を決意する

上野城(上野城は穂北ほきた城の別称)攻めが始まる1ヶ月前の天正六年七月二十日、島津義久は盟書を北郷時久に与え、起請文を書き、大友勢の撃退を誓った。
起請文を書くということは、「神に誓って」ということであるので、これは何よりも重い決意表明である。
ここに至って島津氏は大友氏との全面抗争を覚悟し、高城の最終決戦へと動き出すのである。

上野城(穂北城)主壱岐加賀守いきかがのかみは守りを固めて一歩も譲らず

伊東の諸将が戦わずして島津方に降伏する中で、上野城(穂北城)の城主壱岐加賀守いきかがのかみをはじめとする、宇都宮丹後守、黒木武蔵守、杉田庵、小川時任、日高源太夫、本部小八郎、児玉左衛門、平原弾正らは、上下の城(この上下の城という記述の意味するところは不明である。城の構造として、台地状の地形の上にある曲輪[くるわ]と下にある曲輪[くるわ]をさした記述ではないかと推測する)の守りを固めて島津方に屈服せずに持ちこたえいた。(佐土原藩譜)
(→管理人注釈)この上野城(穂北城)が、伊東義祐が豊後に逃れた天正五年十二月末から、この天正六年八月までの8ヶ月間ずっと島津方に屈服せずに守りを固めていたのか、それとも表面上は従属したフリをしておいて、大友勢の侵攻や石ノ城の奮戦に触発されて敵対姿勢を明確化したのかは分からない。
ともあれ、この天正六年九月には島津方から討伐軍が派遣されるほどの明確な敵対行動を取っていたことは確かなようである。
上野城広域図 上野城(穂北城)の周辺地域の概要を示す。
左図のとおり、上野城(穂北城)は高城へ到る要地を占める。
図中の城は全て伊東48城に含まれる城であり、これらの城が街道の要地に築かれている事が分かる。
先に蜂起している石ノ城と合わせて、高城を囲むように大友のくさびが打ち込まれている様子が分かる。
実は更にこの2ヶ月ほど後に、穂北城の南西にある三納みのう城が、決起した伊東の残党勢力により奪われることになる。

島津征久しまづゆきひさの軍勢が上野城に攻め寄せる

天正六年八月十九日、この日はとても天気が良く、秋風も非常に爽やかだった(この日は現在の暦になおすと9月30日である)。一ツ瀬川の川面の水も静かで、非常に心地よかったからだろうか、上野城の諸将は杉安[すぎやす]河(一ツ瀬川)に船を浮かべて酒を飲んでいた。

上野城下杉安 うららかな秋の晴天の上野城(穂北城)下の一ツ瀬川。まさに「水面も静かで非常に心地よい」。この日は上流で雨が降ったのか、土木工事でもやっているのか、水がかなり濁っていた。
普段の川の水はもっと澄んでいる。天正年間ならなおさら水は澄んできれいであったろう。
このような陽気に誘われて上野城の諸将は舟遊びに出たのであろう。「さもありなん」である。

船上の宴もたけなわであったその時、島津勢は上野城の城兵に見つからないように桜川(宮崎県西都市)に沿って調殿つきどの、松本(松元か)あたりまで進軍し、そこでときの声を挙げた。
そのときになっても上野城の城兵は、何が起こったのか状況が把握できずにいた。彼らは、まだ島津勢が攻めて来たとは気付かないまま、何事かと怪しむだけであった。
そのとき、伊集院某中馬武蔵と愛甲大蔵寺が一緒に、われ先にと上野城に攻めかった。
このときになって初めて敵兵は「薩摩勢が攻めてきた」と分かり、大混乱をおこした。舟遊びをしていた諸将は、船を如法寺にょほうじ(→宮崎県西都市大字穂北)の下につないで、一ツ瀬川の東岸から弓で攻撃して、島津勢を防ごうとした。このときは、島津勢はそれ以上進まなかった。
その日、日没後も上野城の守備兵は島津勢の夜襲を警戒し、守りを固めていた。
その夜は島津勢は攻撃を行わなかった。(佐土原藩譜) 上野城広域図

上野城下杉安 如法寺付近から一ツ瀬川を挟んで対岸を見る。島津勢はこの対岸まで進出してきた。
船をこの付近に繋いだ諸将は弓矢で対岸の島津勢に応戦した。

次の日、伊集院、梅木田、本田、川上の兵2000余騎が城に攻めかかった。上野城の城兵も必死の防戦を行ったが、湯地、川崎らが討死し、落城寸前となっていた。
そのとき、平原弾正舎政、その弟 平原武蔵久舎が援軍として駆けつけ、城兵を叱咤しったし、共に戦い、何とか落城を防いだ。
攻めあぐねた島津勢は、いったん軍勢を島之内八幡社まで後退させて、そこに陣を張り、しばらく留まって兵を休めた。(佐土原藩譜)

殺伐さつばつたる戦場での風流

攻撃開始から1ヶ月が過ぎようとしていた、天正六年九月十三日の夜のことである。
上野城に立てこもる武将の奥方や娘等が、城の南のあずまやに出て、琴を奏で、月見をしていた。その管弦の音や、詠歌する声は、城を囲む島津勢にも聞こえてきた。
これを知った島津勢は、戯れに以下のような歌を短冊に書きしるして、矢につけて城の方向に放った。
ながめしは 同じ雲居くもいの月ながら 波々遠く へだつるはし」
→訳文:「あなたと私は、こうして同じ空の月を眺めているのに、川を隔てて別れ別れになっているなんて、つらいことです」
短冊をつけた矢は横山蔵人よこやまくらんどの陣屋に落ちた。兵がこれを拾って、上野城の諸将が集まっているところまで持っていった。
上野城にいる諸将の間では、ここで返歌を送らないとなると、「なんとも風流心のない連中だ」と島津勢に馬鹿にされかねないと心配していた。
諸将は、「誰か返歌を詠まないか」と軍中にこれを示したが、誰も進み出なかった。
そのとき、弱冠17歳の宇多津肥前うたづひぜんの妻が筆をとり、短冊をもらって以下のような歌をしたためた。
長月ながつきの 月のながめは 変わらぬを うけでや遠く 思ひ隔てて −伊東の小臣宇多津肥前妻」
→訳文:「同じ九月(現在の暦ではこの日は10月23日)の月を眺めている私達が、このまま離れ離れになっているはずはありません。」
このとき、座に加わっていた落合兼行が進み出てこう言った。「この城に、矢文に対する返歌を詠める男が一人もいないことがあろうか。敵方に送る短冊に、女である宇多津殿の内室の名前を書くことはどうもよろしくない」
一同はその通りだということになり、誰に返歌を詠ませようかと人選を始めた。そこに適任の者がいるという知らせが届いた。その者は、豊後の国臼杵越中守うすきえっちゅうのかみの家臣で織田下野介おだしもつけのすけという者で、幼い頃から二条流を学んでおり歌道にとても秀でているということであった。
諸将は、早速その織田下野介を召しだして、返歌を詠ませようということに決めた。諸将の前に召し出された彼は、すぐに次のような返歌を詠んで短冊にしたためた。
「何の世に 語り合せん 長月ながつきの 月のながめも 隔たりし空 −織田某」
→訳文:「貴殿らとは離れ離れで九月の月を眺めているのに、何か語り合うことがあろうか(いや、ない)」
この短冊を矢に付けて、緒方勇右衛門という者に島津方の陣へ射させた。
戦場における風流を楽しむ心の話である。(佐土原藩譜)

上野城下杉安 波々遠く隔つるは・・・
上野城側から一ツ瀬川を挟んで対岸を見る。偶然だが、ちょうど撮影日が旧暦の九月十三日頃(和歌の矢文を交換した日!)である。
上野城の諸将やその家族達が見ていたのもこんな風景だったに違いない。

上野城の凄惨なる最期

天正六年九月十五日、島津征久しまづゆきひさの家臣である樺山、酒匂らと、新納らの諸将が軍勢を率いて進軍した。
島津勢の先陣は都萬つま神社に集結し、後陣は長徳寺ちょうとくじに集結した。

都萬神社 現在の都萬神社。広い敷地と古くからの森が残っている。森の木々は非常に古く大きい。

都萬神社 社の周りは森になっている。


都萬神社 都萬神社











社の裏の森。「樹齢何百年」という大木が、ざらにあるような森である。
恐らく島津勢はこの社の森に野営したと考えられる。
この森の木々は野営する島津勢を見守っていたのであろうか・・・


都萬神社 都萬神社の大きなクスの木(国の天然記念物)。樹齢1200年で、幹の周りが986センチメートル。宮崎県巨樹百選の1本である。
この木は確実に野営する島津勢を見守ったであろうし、この木に戦勝を祈願した武将もあったに違いない。
なにしろ、当時でも樹齢700年を越える大樹であったのだから・・・
ちなみに、高城川での最終決戦の前に、島津氏が都萬神社に戦勝の祈祷を行わせたことが文献に残っている。
更にちなみに、都萬神社に祭られている神様は木花咲耶姫このはなさくやひめ、美人で知られる神様である。

島津勢は、未明に前進を始め、くま城(上下の城のうち、下の城であると思われる)に攻めかかった。戦いが始まると、島之内(島内)に陣を張っていた伊集院勢も援軍に駆けつけ、島津勢は先を争って城に攻撃を仕掛けた。この日、遂に城(隈城と思われる)が落城した。多くの城兵が川に溺れて死んだ。
その時、壱岐加賀守いきかがのかみの奥方は、18歳であったが国広の太刀二尺8寸(約85センチ)を腰に下げ、不動丸の薙刀なぎなたを携えて、横山蔵人の陣に援軍として駆けつけようとしていた。
しかし、途中逆江(坂江)、下鶴(下水流[しもづる])に島津の伏兵がいるかもしれないことを恐れた家臣が、彼女を押し止めた。
そのとき振り向くと、城門(おそらく上野城)に火がつき、城が燃え落ちているのが見えた。
彼女は悲しみに涙を流してこう言った。「夫(上野城主壱岐加賀守)の最期に立ち会えずに、離れ離れで死ぬことが心残りでなりません。しかしながら武門の妻として死ぬことも前世から決まっていたことでしょう。ですから私は決して死を恐れたりはしません。」
言い終わると、彼女は自ら刀を体にあてがい、そのまま前のめりに倒れこんで自刃して果てた。
それを聞いた伊東方の将兵も島津方の将兵も、「何と20歳にも満たないのに空しく死んでしまって、痛ましいことだ」と思ったけれども、「ひとかどの武将にも劣らない烈女であった」と褒め称えたという。
横山蔵人は一ツ瀬川西岸の松元(原文には西ノ河隈松本とある)まで移動して切腹した。
平原弾正舎政は、金谷寺の後ろの山の木陰に座り、弟の平原武蔵久舎及び、宇右衛門時定と、妻女を刺殺した後に、自らも自決した。
壱岐加賀守の最期は確認できなかった。(佐土原藩譜)
上野城広域図 上野城(穂北城)の入り口は北方向(地図では上)であり、南側は絶壁となっている。
隈城を陥落させて茶臼原の台地上に達した島津勢は、攻めやすい上野城(穂北城)の北面から攻めたと考えられる。
さらに、上野城側に3名の内通者がおり、島津方に協力したという記述がある(大友御合戦御日帳写)ことから、
島津勢が上野城の城門に到るとすぐに行動を起こして島津勢を城内に引き入れたものと考えられる。
堅固な上野城(穂北城)が、壱岐加賀守の妻も予想だにしない短時間で、あっさりと落城してしまったのはこのような理由と考えられる。

<<高城川での最終決戦まであと2ヶ月>>

<総括>島津は足元の反乱を一つ鎮圧することに成功
         大友勢は間に合わず

大友勢は何をしていたのか?遅すぎる大友勢の進出

上野城は1ヶ月近く抗戦した後に落城した。彼らが頼みとしていた大友勢は結局間に合わなかった。彼らとしては、大友勢が南進してくるのを一日千秋の思いで待っていたに違いない。大友勢が耳川以北にとどまって、南進してくるのが遅れた理由が、前章で推測したように寺社仏閣の破壊活動を行っていたからだったとすると、上野城で玉砕した将兵の心中を察するに、あまりに忍びない・・・。
結局、大友勢が耳川を渡って南進し、浅付山に陣を張ったのは、上野城が落城した天正六年九月十五日のまさにその日であった。

チャンスを生かせない大友勢

この時期、大友義統おおともよしむねは日向国内に潜伏させていた武将や、日向国内の伊東の残党に対して、盛んに反島津の決起を促す働きかけをしていたようである。
その証拠として、日向記には、大友義統から石ノ城に立てこもっている長倉祐政へ、島津勢撃退の功績を誉める書状が収められている。
また、佐土原藩の別の文献である旧事集書には、「この上野城には大友氏配下の武将が一人、援軍として壱岐加賀守らと共にたてこもっていた」という記述がある。
つまり、上野城の反乱も、内々に大友家の援助を受けた反乱だったということである。
ここで思い出していただきたい。島津勢に返した返歌を詠んだ者は豊後国(大分県)の侍であった。
管理人も当初、この文献を読んだときに、どうしてこの場に豊後国の侍がいるのか不思議だった。しかし、旧事集書の「大友氏配下の武将が1人援軍としてたてこもった」という記述を読んで全てがつながった。
この織田下野介という侍は、上野城に潜伏するために日向国に潜入してきた大友方の侍の一人であろう。

上記の石ノ城、上野城に見られるように、大友義統は、積極的に島津勢の後方をかく乱する上手い策略を講じておきながら、そのチャンスを活かしきれていない。
つまり、これらの城が健在の間に、高城川原に到着することができなかったのだ。もし大友勢が、石ノ城と上野城が健在のうちに高城川原に到着していたら、両城とも高城周辺の城であるので、大友勢にとってみれば非常に重要な拠点となったはずである。しかし、大友勢はそのようには動かなかった。
大友義統は本国にあり、大友宗麟も後方の無鹿むしかにあって最前線の状況把握ができなかったのか?それともキリスト教宗団の建設に忙しかったのか?所詮彼らのことは捨石としか考えていなかったのか?今となっては分からない。
ただ、この詰めの甘さが、この後の大友勢の致命傷の一つとなったことは確かである。


<総括おまけ>上野城と穂北ほきた
  長倉洞雲斎親子と壱岐加賀守 の謎

上野城合戦の謎

ここで取り上げた上野城(穂北城)をめぐる合戦であるが、実は鹿児島に現存する島津方の文献にはあまり登場しない合戦である。
よって、この上野城(穂北城)城主とされる壱岐加賀守なども、実は誰なのかはっきりしないのである。
少なくともこの合戦の10ヶ月前の上野城(穂北城)城主は長倉洞雲斎であり、島津勢に追われ、頼ってきた伊東義祐主従を助け、豊後に逃がした忠臣である。
しかし、上野城(穂北城)をめぐる戦いの時には城主は壱岐加賀守とされている・・・。
この謎については、謎の上野城合戦で検証する。



佐土原城 遠侍間 佐土原城 遠侍間サイトマップ