天正六年四月
土持氏滅亡し、大友勢 日向国北部を制圧す


大友勢、破竹の勢いで進撃し、新納院にいろいん以北を制圧する

大友勢、土持親成つちもちちかなり高信たかのぶ父子に勝利する

天正六年四月八日、大友勢は宇目牟礼を経由し、梓口、矢ガ嶺の二手に分かれて進軍した。宇目、坂利(酒利のことか?)を本陣として梓越谷嶺より攻撃し、橋峯に侵入した。これを受けて島津方の土持親成は松尾城(南方村)及び行縢むかばきの要衝にこもった。近隣の山陰、田代の武士も大友勢に加わって土持氏を攻めた。
天正六年四月十五日、激戦の末、土持親成の甥であり、養子である土持高信が自刃し松尾城が落城した。土持親成は、数十騎を引き連れて行縢むかばきの要衝に退いてさらに抵抗の構えを見せたが、大友勢に捉えられた後に斬殺された。
ここにおいて保元年中よりあがたに移り住んでから17世、33代、4百有余年続いた土持氏が絶えた。
土持親成の嫡子である弾正忠は、土持親成の妻の弟(忠の叔父)である清田重忠(大友方の家臣)を頼って一旦は豊後国の浦辺に逃れた。そして浦辺を経由し長門国に逃げ延びた。
また、次男親信は幼少であったので、合戦が始まる前に土持山城守に連れられて薩摩に避難して、この戦いを生き残っている。
ちなみに、彼らが生き残ったので、この後、土持氏は再び縣城主に返り咲いている。土持親成の周到な準備が実を結んだ結果と言うべきか。
ともかく、初戦の勝利により勢いに乗った大友勢は、耳川以北を大した抵抗にも遭わずに制圧した。大友宗麟おおともそうりん大友義統おおともよしむねはこの知らせを本国で聞いている。(喜田貞吉著 日向国史)

<<高城川での最終決戦まであと7ヶ月>>


<総括>この時点での島津方の動きと大友宗麟の決断

本当に動けなかった島津義久

島津方はこの土持親成と大友勢の合戦において、援軍を出していない。
この時点の島津方は大友方と積極的に事を構えようとはしていなかったようである。
島津義久のこの時点の認識を推理すると、耳川を防衛線(境界線)として、耳川以北の日向国領は捨てるつもりだったのではないかと推測できる。
実際に大友宗麟に付き従っていたポルトガル人宣教師のルイスフロイスは、「日本史」の中で、『島津氏は耳川を防衛線と心得ているらしい』と記述している。
大友方も、耳川において進軍を一旦止めることから、耳川が、島津氏とのとりあえずの境界線と認識していたようである。
島津方が取ったこの消極的な行動については、「大友勢を日向国深くにおびき寄せて一気にたたく戦略であった」とする説がある。
これは島津氏が野戦において得意とした「釣り野伏」という戦術を意識している説であるが、私は以下の分析からこの説は正しくないと考えている。
<時期的な理由>
大友勢が行動を起こした天正六年二月の島津義久は、1ヶ月半前に占領した日向国都於郡とのごおり城において、伊東攻めの論功行賞がようやく終わったところであった。(山田有信が高城の地頭に任じられたのも、この月である)
つまりこの時期の島津家は、まだ日向国内の実効的な支配体制を固める前であり、島津方の多くの諸将は薩摩・大隈に領地を持っていた。そんな彼らに、遠く日向国北部に出兵することは難しかったのではないかと考えられるのである。
冷静に考えると、わずか2ヶ月ほど前の天正五年十二月時点では、伊東氏が日向国のほぼ全域を支配し、島津家の最前線は日向国野尻城付近であった。(下図天正五年十二月の最前線)
それが伊東家の(予想外に早い?)崩壊により、最前線は一気に約100キロメートル北方の日向と豊後の国境になってしまったのである。(下図天正六年一月の最前線)
島津方は、日向国北方に軍勢を派兵できる時期ではなかったと考えられる。

<日向国内の理由>
この合戦は、一度服従の態度を表明した門川かどがわ城主の米良四郎右衛門、潮見しおみ城主の右松四郎左衛門、山陰やまげ城主の米良喜内らが裏切って土持親成を攻め、これに大友の大軍が加わっている合戦である。
また、島津勢が防衛線としたと推測される耳川以南の、水志谷みずしだに神門みかど坪屋つぼやなどの諸勢力が大友方に寝返っていた。
さらに、寝返った勢力の支援を受けた伊東方の将兵が、高城のわずか10キロほど北西の石ノ城に立てこもっていた。
島津勢はほとんど戦わずして、耳川以北はおろかか、耳川の遥か南方の高城以北の実効支配を失っていたのである。

このような状況下の島津方に、ただでさえ遠隔地である戦場に危険を冒しながら進軍し、大友の大軍と互角に戦える程の軍勢を派遣することは不可能だったと考えている。
日向国内の実効支配が出来ていない以上、いつ、高城以南のどこで大友(伊東)方への寝返りが出るか分からないのである。
以上の分析から、私は、ものの本に散見される、「島津方は、大友勢を高城付近まで"釣り野伏"流の戦略でおびき寄せて・・・」といった解釈は正しくないと考えている。
島津勢は高城あたりに封じ込められて、本当に動けなかったのである。

大友宗麟の判断力の冴え

このように考えると、大友宗麟がこの時期に、逃げ延びてきた伊東義祐の訴えを受ける形で日向国侵攻を決めたのは、非常に合理性がある判断だったと言えるかもしれない。
なにしろ島津勢はほぼ無傷で日向国を手に入れているのである。大友宗麟は、「島津方の体制が整わないこの時期、伊東の残党がまだ多く生き残っているこの時期を逃しては日向国侵攻はありえない」と考えたのかもしれない。



佐土原城 遠侍間 佐土原城 遠侍間サイトマップ

耳川の戦い 高城の合戦メニュー 大友宗麟  伊東義祐の願いを聞き入れ日向国に侵攻す 島津忠長、島津征久、島津家久ら  石ノ城を攻む(第一次石ノ城攻防戦)