天正六年十一月
両雄ついに高城川にて激突す(高城の合戦)


両雄、高城川原にて雌雄を決する


茶臼原ちゃうすばる台地上の島津陣から決戦場の高城の川原を展望する。
平原の奥の、写真左端から中央部分に伸びる低い山(尾根)が高城である。本丸は尾根の右端(先端)である。
右手の高架橋を挟んで左方向に大友本陣、右方向に川原の陣がある。
野久尾陣は高城の山の裏で、ちょうど隠れて見えない辺りの場所である。
主戦場は眼前の平原で、高架橋辺りから手前に向かって数万の大友勢が殺到した。

島津本隊 夜陰にまぎれて配置に付く

島津義久しまづよしひさら一同は、明朝にも大友勢が攻め寄せることを知り、策を練った。
そして島津征久しまづゆきひさが伏兵部隊の将に任じられた。
島津征久は諸将にこう言った。
「敵は大軍である上に必死である。特に今日、陣中で口論が起こったようであるから、その分、我が軍に激しい怒りをぶつけてくるだろう。また、敵の先頭部隊は後続部隊が後に続くか続かないかを気にせずに突っ込んで来るはずだ。
よって、これらの部隊とは、最初からまともにぶつかってはいけない。
そもそも佐伯宗天さいきそうてん田北鎮周たきたしげかね遮二無二しゃにむに攻めてくる理由は二人の間に起こった口論にあり、軍略上の理由があるものではない。つまり明日の彼らの勇猛さは、血気にはやった勇猛さであり、そのような勇猛さはすぐに崩れるものである。これは戦いやすい敵と考えるべきである。
ただ、最初の攻撃の勢いは猛烈であると思われるので、まともに相手をせずに、その勢いが衰えたところで一斉に攻め立てることとする。
一斉攻撃は、私の馬標うまじるしが立てられたのを合図に行うこととする。私の馬標が見えないうちは、どんなに大友兵が近くに来ても伏し隠れたままで我慢せよ。仮に敵兵が鎧を踏もうが、自分の馬に手を掛けようが、決して攻撃を仕掛けてはならない。」
このように段取りが決まって、諸将はそれぞれ部隊を率いて持ち場に移動し、伏兵として隠れた。
小丸川の西には合計700騎が河原の藪、低木、人家の陰に隠れた。これは敵兵が一ノ瀬を渡ってきた場合に敵勢の側面を突いて撃破するための伏兵である。
川下には合計600騎が森林の陰に隠れた。これは敵軍が簗瀬を渡って来たときにその側面を突くための伏兵である。
大将である島津義久は1万余騎を率いて根白坂の上に待機した。これは東西の伏兵がもし敗走した際にこれを助けるためである。
島津征久は配下の200騎を率いて一ノ瀬と簗瀬の間にある尾崎の松陰に隠れ、たか羽の馬標に覆いをかぶせて見えないようにした。馬標を持つのは木内小鷹兵衛である。
先陣の軍は小丸川の北岸、高城の東麓、勝坂と小丸川の間に陣を構えていた。左側が北郷久盛ほんごうひさもり、右は川上左京で、足軽と騎馬あわせて500名を率いている。
(佐土原藩譜、征久公記)
島津征久陣は高城の川原を見下ろす丘陵(茶臼原ちゃうすばる)の上にあった。
島津征久隊は伏兵となるために、夜陰にまぎれて丘陵上の自陣から高城川原へ降りていったはずである。
写真は、丘の上から高城川原へ降りていく小道のひとつ。
まさに『鞭声粛々』といった感じである。

島津勢の前衛部隊が壊滅

夜がまさに明けようとしていた午前6時前頃、大友本陣の大手の口から、高城田間の辺りに軍勢が降りてきた。更に川原の陣からも大友勢が出てきて、弓や鉄砲を射掛けつつ、槍衾やりぶすまを作って、騎馬と一緒に突進してきた。
大友勢は前衛の北郷ほんごう久盛、川上左京の陣に攻めかかった。北郷久盛・川上左京は攻め寄せる大友勢に弓、鉄砲を撃ち掛けた。そして鉄砲の煙も消えやらぬ中、突撃してきた大友勢と槍をあわせ、刀で斬り合い、火花の散るような激しい戦いを繰り広げた。
田北鎮周の軍勢は最初から死を覚悟しているので、何のためらいもなく、わき目もふらずにまっすぐに突進してくる。
そもそも小丸川北岸に展開している島津の前衛部隊は数が少なく不利である。しかしこれらの軍勢は一歩も退かない。北郷久盛自ら陣頭に進み出て兵を指揮して戦っている。
しかしながら、大友勢は如何ともしがたい大軍である。大友勢の猛攻の前に、川原の陣の下に陣取っていた島津勢が浮き足立った。それにつられるように近くの島津勢も後ずさりし始めた。
その中で、島津方の将、市来軍助は伊東常陸と組み合って刺し違えて討死。
同じく島津方の将、毛利助左衛門尉は伊東権助に討ち取られて討死。
同じく島津方の将、北郷時久、北郷久盛とその家臣である岩満美濃重直、高野刑部左衛門、黒田某ら十数名が討死。
更に島津方の将である北郷時久の家臣の村田能登守経重、山中宗左衛門尉などの多くの者も討死。
また、島津義久の旗本である本田親治、廻三国、丸目某らは大友方の斉藤鎮実、村上、長倉の軍勢と刺し違えて討死した。
かくして小丸川北岸の島津勢は壊滅し、逃げ延びた兵は味方のいる小丸川南岸へ逃げ散った。
6万(2〜3万か?)の大友勢は勢いに乗り、われ先にと一気に突進し始めた。目指すのは島津義久の本陣である。
(佐土原藩譜、大友御合戦御日帳写)

典厩てんきゅう、気を大軍に奪わるるや!」

高城内からこれを見た山田有信は「北郷ほんごうの軍勢が敗走しました。敵は小丸川を超えて島津勢本隊とぶつかっています。早く高城の城門を開けて敵の背後に打って出ましょう」と島津家久に進言した。
しかし島津家久は、「たしかに打って出てもよい頃合だが、典厩てんきゅう(島津征久のこと)の馬標うまじるしが見えない。まだ打って出るには早いのであろう。もうしばらく待て」と言って山田有信の進言を退けた。
そして、島津家久は自ら高城の東の大木に登り、眼下で繰り広げられる戦の様子を眺めた。
まさにそのときは、大友勢の先鋒が小丸川の川岸に到って、川を渡るのを少し躊躇ちゅうちょしている状態であった。
今すぐに高城から打って出ることをおしとどめた島津家久であったが、「典厩(島津征久)はなぜ今になっても馬標を掲げないのだ。典厩、大友の大軍に臆したか?!」と歯ぎしりをする思いで高城の大木の上から戦場を遠望していた。
(佐土原藩譜、征久公記)

鷹羽の馬標 高城川原にひるがえり、島津勢一斉に動く

島津征久は、大友勢が川を渡ることを躊躇しているのを見て、隠れている場所から密かに足軽数十人を出した。大友勢に高城川(小丸川)を渡らせるために、おとりとして攻撃を仕掛けるためである。
おとりの足軽は槍を引きずりながら、大友勢側の川岸に向けて少しずつ川を渡っていく。これを見た大友勢の兵は嘲り笑って、「一人残らず生け捕りにしろ!」と叫んで囮の足軽に攻めかかった。
これを機に大友の大軍は大挙して突進を始めた。
囮の足軽は大友勢が追撃してくれば少し応戦して逃げて、大友勢が追撃の手を緩めるとその場に立ち止まって大友勢を挑発した。そして遂に大友勢の先鋒部隊に川を渡らせることに成功した。
追撃の勢いに乗った大友勢は、「あのような少数の敵には目をくれるな。直接、大将島津義久の本陣に突進し、一気に勝敗を決するのだ!」と叫んで全軍の半数以上が小丸川を渡って島津勢本陣に突進してきた。
それを見た島津義弘は、軍勢を筋交瀬(小丸川沿いの平原)に進めた。島津歳久と伊集院忠棟も援軍として合流し、突進してくる大友勢と正面からぶつかった。

その時、島津征久は伏兵を起こす機が熟したことを察して、馬に乗り今まさに攻めかかろうとしていた。
島津征久の馬の左右には前田備後と、先ほどの囮部隊を指揮した上山長門がいて、くつわを握っていた。
島津征久は左右の二人に問うた。「敵軍は隊を乱して突進している。もうそろそろ良い頃合だろう。」
二人は「その通りでございます。」と答えた。
二人が握っていた島津征久の馬の轡の紐が放たれた。島津征久の伏兵部隊が動き出す。
(佐土原藩譜、征久公記)

「今日の事、ただ斬捨てにせよ」

島津征久しまづゆきひさの伏兵が起った。
ほら貝を吹き鳴らし、たか羽の馬標うまじるしを高々と掲げ、簗瀬やなせ口の水たまりを踏み散らしながら、征久の軍勢ははあっという間に大友勢の東側面に攻めかかる。
側面を突かれた大友勢はたじろいで、突撃の勢いが衰える。
その直後に西の方、小丸川上流で2番目のほら貝が鳴った。西の伏兵700騎が起ち、大友勢の西側面に攻めかかっていく。
また同時に東の方、小丸川下流に伏せた伏兵600騎も起った。彼らは、ほら貝の音と同時にときの声を上げ、一団となって大友勢の斜め後ろから攻めかかった。
この最後の伏兵部隊を指揮する島津忠長しまづただなが上井覚兼うわいさとかねらは鬼の形相で勇戦しつつ、兵を励ましながら戦っている。
大友勢は右往左往して混乱状態に陥った。
高城で戦いを見守っていた島津家久も、山田有信に「典厩の伏兵が起ったので、われわれも打って出る」と言い、城門を開いて大友勢の背後に突進した。 島津義久の本陣の軍勢も少しずつ前進しながら根白坂を下っていく。

そもそも島津征久の手勢は、わずか200という小勢であった。 しかし、小勢とはいえ大友の大軍の側面に突入し、あたりかまわずに斬りつけて大友兵を倒していく。前後左右全て敵兵という状態であり、一人で100人以上の敵兵を相手にしているような状態である。
そんな中で、島津征久の配下である松本了閑という者が、大友方の将の首を取り、島津征久のもとに引き返して来た。松本了閑は島津征久にその首を見せた。それを見た島津征久は、将兵にこう命令した。
「今日の戦では、首を取らずにひたすら斬り捨てよ!」
(首を取る暇をも惜しんで、とにかく大友勢の側面を切り裂けということであろう。壮烈な命令である)
それを聞いた士卒は更に闘志を燃やし、奮戦した。

かくして大友勢は総崩れとなった。
島津家久は、従者を引き連れることもせずに、単騎で敗走する大友勢をめがけて馬を飛ばして突撃した。そして太刀を振るってあっという間に逃げる大友勢を10人ほど討ち取った。
(佐土原藩譜、征久公記、庄内平治記)

竹鳩ヶ淵だけくがふち

さて、簗瀬口の西に大きな淵がある。長さにして300メートル以上、川幅は約110メートル、水深は6メートル余りである。光の当たらない川岸付近を覗き込むと青々として深い川の流れが見え、夕日の光が反射する部分を見ると100枚の鏡を見ているような川である。この淵を竹鳩ヶ淵だけくがふちという。
島津勢に追われて逃げる大友勢のうち、土地勘のない者達は、深い浅いも分からないままに、皆この淵に駆け込んだ。川を渡っている途中で、川が深いと分かって岸へ引き返そうとしても、後から後から川へ逃げ込んでくる味方に押されて引き返すこともできず、そのまま流れに飲まれて溺れる者は数百人、数千人と数え切れない数である。
逃げ遅れた者は島津勢に討ち取られ、逃げ切って川に駆け込んだ者は溺れるか、島津の兵に岸まで引き寄せられて首を取られた。水面には大友勢の旗印が浮いていたという。
この様子は、先日の島津義久の夢の中の句「討つ敵は 龍田の川の もみじかな」の通り、まさしく風に吹かれた紅葉が龍田の川の水面に散り落ちているような様子であった。
ここで佐伯宗天、実弟の佐伯新介、伯父の佐伯掃部助らが死亡した。
(庄内平治記、大友御合戦御日帳写)

掃討戦

川原の陣にいた筑州高良山座主と星野の両軍勢は降参していたので、高城のふもとへ留め置かれた。
しかし、その他の川原の陣の軍勢は攻め立てられ、300名以下ほどになっていた。彼らの中には、大友本陣へ逃げ込む者もあり、野久尾陣に向かって逃げていく者もありといった状態で、四方八方に逃げ散って行った。
島津義弘、島津征久、島津歳久、島津家久、伊集院忠棟、上井覚兼らは、戦いの半ば頃に大友本陣を目指して攻め上がった。
大友勢は塁上でこれに対して防戦したが、川原表の衆(竹鳩ヶ淵付近)が壊滅させられたのを見て戦意を喪失し、遂に本陣から追い落とされた。陣内で討たれる者もあった。
また、野久尾原に逃げ上がり、そこかしこの野山や藪などに隠れていた大友の将兵は島津勢により狩り出され、数え切れないほどの人数が首を取られたり、生け捕りにされた。
島津勢は逃げる大友勢を追いかけ名貫川を渡った。北郷久堯と伊集院美作守は先頭をきって大友勢を討った。
午後4時前になると、島津義久が配下の軍勢を引き連れて制圧した大友本陣まで進み、川田駿河守の勝どきに合わせて、軍勢全員で勝どきをあげた。2000から3000の大友勢の首級が並んだという。
(大友御合戦御日帳写、庄内平治記)

長倉祐政ながくらすけまさ最後の戦い

島津方の諸大将は我先にと大友勢を耳川の渡り場まで追撃した。
野久尾陣からの逃げ道では、山田有信が高城の衆、足軽を少し引き連れて山中を2,3里ほど追撃し、山陰やまげ、壷屋を目指して敗走する大友勢を300名ほど討ち取った。

しかし、なだれを打って敗走する大友勢の中にあって、唯一組織的な統率を保って、整然と退却する部隊があった。
その大友勢の中に、伊東の旧臣である長倉祐政がいた。
彼は、前哨戦である石ノ城の攻防戦からこの日の最終決戦まで8ヶ月以上も島津勢と戦い続けてきた忠臣である。
これを追撃する島津勢の将である曲田伯耆守、梅北宮内左衛門尉、海江田主殿助、野村堅介、右松右馬允らは、殿軍しんがりを勤める長倉祐政ながくらすけまさを見つけて、「もう一戦戦え」と、大声で叫びながら追いかけていった。
これに気が付いた長倉祐政は、このように追いすがってくる島津勢に武勇の程を示そうと、馬を返して名のりを挙げた。
(もしかすると長倉祐政は、追撃してくる島津勢の中に伊東の旧臣であり、伊東家を日向から追いやった野村堅介を見つけて「せめて一太刀でも浴びせたい」と思ったのかもしれない。)
長倉祐政は、死をも恐れず激闘を挑んできた。この戦闘により、太刀場において、島津方の曲田伯耆守、海江田主殿助が討死した。そのほかの島津勢も痛手を負って退却した。長倉祐政も同じ数ほどの兵を失って退却した。
その後も新手の島津勢が駆けつけて、敗走する大友勢を散々に攻めたてた。
戦いが終わる頃には、高城と耳川の間の7里ほどの間に横たわる死体は数え切れない程になっていた。
(長谷場越前宗純自記、大友御合戦御日帳写)

「彼を生かすも利を失うにあらず、彼を殺すもなんぞ勝ちとせん」

追撃する島津勢が美々津みみつの渡船場(耳川みみがわの南岸)に到着した頃には、もう日が暮れていた。しかも折からの大雨で、耳川を渡るのには手間がかかりそうな状況であった。
そこで、島津勢は追撃を中止し、軍勢をその場に止め、様子を見るために一人を川向こうに渡した。
島津征久は海沿いに陣取った。
そのとき、島津征久の軍勢は、大友方の敗残兵およそ50名が死を覚悟した様子で隠れているのを発見した。
島津征久が軍使を派遣して事情を聞くと、大友方の敗残兵はこのように返答してきた。「我々は大友方の敗残兵です。耳川を渡って先に進もうにも船もなく、後には島津勢が迫って来て、進退きわまっておりました。そうしているところに島津征久殿の軍勢に遭遇しました。ここはひとつ一同切腹して、名のある征久殿に首を差し上げたいと思っております。」
島津征久はこれを聞き不憫ふびんに思い、配下の者にこう言った。
「たとえ彼らを生かして帰しても、何も島津勢の不利益にはならない。よしんば彼らを殺したとしても、本日の勝ち戦の手柄に比べればなんと小さいものか。彼らを助けて本国に帰してやろうではないか。」
そうして彼らのもとに再び軍使を派遣し、こう伝えた。
「各位の忠義の心には感じ入った。昔から『士は互いに情をもって接しあうものだ』ともいい、また『勝敗は兵家へいか(武士のこと)の常である』とも言う。今ここで少数の大友方の兵を殺しても何の得もない。各位は急いで耳川を渡って本国へ帰られるがよい」
そして征久は、彼らのために2隻の船を用意させ、耳川の対岸まで彼らを運んだ。
大友方の敗残兵は涙を流して喜び、礼を述べて去って行った。
(佐土原藩譜、征久公記、大友御合戦御日帳写)


<総括>大友の殿軍しんがり

殿軍は長倉祐政?田原親賢(紹忍)?

高城の合戦において、ある軍勢の記述が複数の文献に登場する。
その軍勢は、敗走する大友勢の中で唯一整然とした退却と組織的な抵抗を見せ、島津方の諸将からも評価されている。
その軍勢は、実は今回「長倉祐政最後の戦い」で紹介した軍勢である。
ただし、この軍勢と思しき記述については文献により記述が異なり、以下のように大きく分けて3種類の記述が存在する。
@田原親賢(紹忍)の軍勢であったとする記述
A長倉祐政の軍勢であったという記述
B武田紹哲、臼杵少輔太郎鎮家、佐伯宗天、佐伯三郎左衛門尉維実、蒲地宗雪らであったという文献である。
特に、@の田原親賢であったとする文献は、田原親賢を評価する上でよく論拠とされる文献である。
ただ、田原親賢であると書いている文献は、「そのときは分からなかったが、後日聞くところによると田原親賢というらしい」という程度の断定度合いの記述である。
今回はAの長倉祐政であるとする文献を採用して上記の通り紹介した。
この理由は、はっきり「長倉祐政と分かって追いかけた」と書いてあること。
加えて、追いかけた軍勢の中に伊東の旧臣の野村堅物がいたと書いてあるので、長倉祐政の顔が分かってもおかしくないことから、話に説得力があるということである。
そもそも、戦場を名札をつけて歩いているわけではないので、敵方の武将の名前が分かるということは、顔を知っているか、相手が名乗ったかのいずれかである。
また、今回のように、背を向けて一斉に逃げていく敵軍の中から「あっ、長倉祐政だ」と気づくには、よほどの顔見知りでないと不可能と思われる。
その点、野村堅介(堅物)は伊東家中でも名のある武将であったので、重臣であった長倉祐政とは確実に面識があったはずである。
また、この戦闘で討ち死にしたとされている武将の名前は、他の複数の文献にも「追撃戦にて討ち死にした武将」として記述があり、この話全体が作り話という可能性も下がる。
(野村堅介[堅物]については、島津義久 伊東家を調略し日向国を制圧す。伊東義祐 大友氏を頼り豊後に逃ると、 運命の決戦前夜 を参照)
また、この文献についての詳しい論証は、近日に高城の合戦 重箱の隅に公開する予定である。


盤上ばんじょうの図」の紹介

盤上の図とは?

「盤上の図」とは、高城合戦の陣地の配置図のことを指す。
由来は、島津征久しまづゆきひさが高城合戦の様子を、碁盤ごばんの上で説明したことから、後世に高城合戦の戦況図を「盤上の図」と呼ぶようになったとか。
下の図は、宮崎県立図書館所蔵の「盤上の図」を下絵として、管理人がドローソフトで書きおこしたものである。(書かれた年代は不明)

凡例

もともとの絵図に解説などは書かれていないが、合戦の歴史的な裏づけなどから管理人なりに凡例を作ってみた。
島津勢(恐らく陣地を表現している)
大友勢(恐らく隊列を表現している)
これも大友勢か?(恐らく大友勢の最前列と、本陣を守る島津勢がこの辺で激闘したという印と思われる)
陣地、城(「石ノ城」を除き、逆向きが大友勢の陣地、通常の向きが島津勢の陣)

解説

@高城合戦の約2ヶ月前の石ノ城の攻防戦の描写。石ノ城の下の「倉永」は「長倉祐政ながくらすけまさ」のこと。
A島津勢伏兵(であろうか?)小丸川の西から大友勢の側面を衝いたとされる軍勢であろう。ただ、小丸川北岸に書かれているのが興味深い。
B島津勢本陣。「太守」とは島津家当主島津義久のこと。よってここは根白坂城に陣取る島津義久の陣をあらわす。右隣「薩摩陣」は島津義弘(合戦当時は忠平と名乗る)、島津歳久陣か?
C切原きりはら川。川の流れは現在の姿とは異なる。
D大友勢本陣。島津方の文献には、「惣陣」と記述されることが多い。
E高城川。ちょうどこの部分に「川の瀬」と記述がある。「瀬」とは浅瀬を意味する。大友勢がここを駆け渡って島津本陣に殺到した様子が描かれている。(赤矢印線が大友勢進路)
F島津勢伏兵。島津征久しまづゆきひさ陣。(合戦当時は以久ゆきひさという字を使っていた)この部隊が「釣り野伏せ」発動の先鋒。有名な「典厩[てんきゅう](島津征久)の横入り」はここから。
また、島津征久のみに「公」の尊称があることから、この図は佐土原島津家にゆかりのある図であろうと考えられる。
すぐ下の字は、「畦原まで兵糧運搬の道」と読める。
G「ダケキケ淵」。桐原川と高城川が合流するこの付近はかなり水深が深かったようだ。釣り野伏せで大混乱に陥った大友勢は島津勢に追われてこの深みに殺到し、多数が水死。
現在の暦で12月の寒空である上に、当日は、折からの雨続きの影響で増水していたと考えられる。無理もない。
打撃だげきヶ淵」などと文献に出てくるが、本当の地名は、「竹鳩だけくヶ淵」。合戦において、ここで大友勢に多数の死者が出たことにより、「打撃ヶ淵」という字が当てられることが多かったようである。
H松原陣。高城合戦の前日に、島津義弘、島津征久、上井覚兼らの部隊により破られており、決戦の日にはこの陣は存在しない。
I文献佐土原藩譜によると、釣り野伏せ最後の伏兵部隊である上井覚兼らの隊がここあたりから大友勢に襲い掛かったという。確かにこうなると大友勢の将兵としては「ダケキケ淵」の方向しか退路がない。
J高鍋城。伊集院久治とある。
K高城の左隣の「中書」とは、島津家久しまづいえひさのこと。
L何とか高城川を越えた大友勢の将兵が耳川へ向かって敗走して行った道。この道を通って島津勢が追撃する。

佐土原城 遠侍間 佐土原城 遠侍間サイトマップ

耳川の戦い 高城の合戦メニュー 運命の決戦前夜 大友勢  日向より去り、島津氏日向国を完全に掌握す