天正六年十一月
運命の決戦前夜


ここに来て一転、和議が結ばれる

大友の使者が高城へ来て和平を申し入れる

正午から夕刻にかけての戦闘で勝利を収めた島津方の陣では、自陣の外の、大友本陣や川原の陣の方向に続く通路に、500人、300人の兵を配置して、用心深く守っていた。
そのとき、高城から川原の陣にいる尾山の法印へ、「以前の約束(時が来れば島津方につくという約束)はどうなったのか」という打診が行われた。しばらくすると、彼らは使者を引き連れて高城へやって来た。
夜中のことだったので、焼き払われた高城の下栫したのかこいに畳を2,3畳敷き並べた陣所を作り、そこに通した。その陣所では、かがり火がたかれ、50人ほどの護衛も付けられていた。
そうしているところに、何と陣大将である臼杵少輔太郎うすきしょうゆたろう(臼杵統景)、佐伯新介さいきしんすけ田原入道紹忍たわらにゅうどうしょうにん(田原親賢)らが高城のふもとまでやってきた。
最初にやって来た大友の諸将の執事に用件を聞いたところ、「明日より停戦を行たい。それについて島津陣内で和平交渉をを行いたいので、道を開けていただきたい」という申し入れであった。
高城の守将である山田有信はこれを了承し、配下の者に丁重にもてなすように言った。
山田有信は、「案内役を承ることは光栄です。島津陣の外に待機している将士に命令すれば御案内できます。都農、名貫まででもお供いたします」と言った。(都農、名貫は高城の数キロ北方の地名。大友陣の一番奥という意味合いであろう)
また、山田有信は次のようにも言った。「和平の話し合いをするのであれば、高城のふもとを通っていただいて、島津方の陣がある山に登る坂道(根白坂)の登り口までご案内いたしましょう。ただし、大人数では御案内できません。」
それを受けて、大友方の使者は上下16人が高城のふもとに集まった。
(勝部兵右衛門聞書)

「このほど御陣よりも呼ばれし、義理なしの堅介と申す者にて、御覚え有るべし」

高城から島津本陣への案内者が支度をしている間は、使者である大友の諸将は高城のふもとにて待機させられていた。
その大友方の使者である星野長門守らのところに、ある島津方の武将が現れようとしていた。
この男を野村堅介のむらけんすけという。
(そもそも福永丹波守、野村堅物(野村堅介)の造反により伊東義祐は戦わずして日向国を追われた。詳しくは、天正五年十二月島津義久 伊東家を調略し日向国を制圧す。伊東義祐 大友氏を頼り豊後に逃るを参照)
彼は伊東一族が日向国を追われた後には、かつての伊東の旧臣を自分の郎党として引き連れて島津氏に従っていた。今回の合戦にも島津方として4,50名を引き連れて高城に篭城し、戦っていた。
伊東氏が日向国を追われた原因を伝え聞いていた大友方の将兵は、大友陣中から「義無しの堅物けんもついまだ堅固にありけるが、義理無しの堅介!」と口々にののしっていた。(堅物けんもつは堅介の尊称。彼の尊称の「堅」と「堅固に守る」の「堅」の字をかけた悪口であろう)
野村堅介はこれを腹立たしく思っていたのであろう。この時、彼は郎党10名ほどをひき連れて、大友の使者のところに堂々とした様子で現れた。この時の野村堅介のいでたちは、銀杏ぎんなんの立物のかぶと(立物:兜の前面の飾り)を台に載せて臣下に持たせ、鮮やかな花の模様のよろいそで(肩から腕の部分を守る部分の鎧)、籠手こて(手につける鎧)、草摺くさずり(下半身を守る鎧。剣道で言えば「たれ」)、佩楯はいたて(太ももを守る鎧)まで身につけて、3尺余りの金色のさやの刀、2尺余りの表面に張物はりものの飾りのあるさや脇差わきざし(短い刀)を帯に差し、武者杖をつくという物々しいものであった。
野村堅介は「このほど大友の陣より呼ばれました、義理無しの堅介と申す者です。お見知りおきを」と挨拶をした。
大友の使者は、「堅介殿は立派な武士だと聞いておりましたが、お目にかかれて光栄です。」と返答した。
野村堅介は、「我々はここでおいとましますが、明日はかならず戦場でお会いいたしましょう」と言って席を立った。装束も物言いも、少々物々しい様子であった。
やがて案内役の支度が終わり、大友の使者は、島津方の陣へ続く根白坂の登り口まで送られた。
(勝部兵右衛門聞書)
この日の夜には、和平が結ばれたようである。
(佐土原藩譜)

逆瀬川豊前兵衛の諜報戦

このように、和議が結ばれたが、大友方の内部では必ずしも合意が取れていなかったようである。その不一致により翌日の最終決戦が起こるのであるが、それについての記述がある文献を紹介しよう。
十一月十一日(現在の暦では12月下旬頃)、決戦前夜のこの日の深夜は、肌を刺すような寒風が吹き、雪が降りそうな寒さであった。雨雲は新納嶽(尾鈴山)の風に細くたなびき、寒々として月だけが明るかった。
諸将は寒さに手を握りしめ、肩を丸めて逆瀬川豊前さかせがわぶぜんの帰りを待っていた。(逆瀬川豊前という武将は大友勢の内情を探るために単身で大友陣に潜入していたと書かれている)
午後8時前頃、逆瀬川豊前は、大友方の陣から帰ってきて、島津義久の本陣に参上した。彼を迎えた諸将は喜び、島津義久も感じ入った様子で喜んだ。
義久は急いで逆瀬川豊前を御前に召し出し、敵情を尋ねた。逆瀬川豊前は進み出て次のように状況を説明した。
「大友勢が今日まで決戦を挑んでこないのは、戦意がないからではなく、幸いにも決戦をためらっているからのようです。しかし今夜、大友勢の先鋒の佐伯宗天さいきそうてん田北鎮周たきたしげかねとの間に不意に口論が起こって、明日決戦と決まったようです。」
逆瀬川豊前が、ある大友方の将の陣に忍び込んで聞いたところによると、詳細は次のようであった。
今日、大友方の諸将が佐伯宗天の陣で軍議を開いた。その場で佐伯宗天は次のように慎重論を述べた。
「島津義久が高城の援軍として、精鋭部隊を率いて援軍に駆けつけている。軽はずみに決戦を挑むと、万が一負けるということもある。そうならないように無鹿むしかの本陣(大友宗麟おおともそうりん)にこの件を報告して援軍を出してもらえるようにお願いしよう。」
しかし、それを聞いた田北鎮周は次のように反論した。
「今回の出陣にあたって、六ヶ国の諸将の中から選ばれて先鋒の軍に加わっていることは武人として誇らしい事である。それなのに、今、島津義久が援軍に来た件を本陣に告げて援軍を乞うなどということは、恥ずかしい事だ。ここに集まる諸将はどう思われるか分からないが、私はそう思うので援軍は乞うべきではないと考える。」
続けて田北鎮周はまくし立てた。
「私は、明日雌雄を決する決戦を挑み、島津義久の首を取る。もしそれが叶わないときは私の首が敵に取られるだけである。私は島津義久などを恐れたりはしない。」
場が緊迫したところで、角隈石宗つのくませきそうが割って入ってこうなだめた。
「田北鎮周の勇猛ぶりはすばらしい限りで賞賛に値する。しかし、今回の戦は大友勢全軍の命運を握るような大事な戦である。このような状態において、血気の勇に任せて軽々しく死ぬなどということは、宗麟公へのご奉公を忘れることであると私は考える。よって、田北鎮周の意見はここでは採用しない。鎮周よ冷静に考えよ。」
しかし、田北鎮周はこれに納得せずに、席を蹴って自陣に帰ってしまった。
佐伯宗天は田北鎮周に侮辱された形になってしまい、腹を立てて、角隈石宗にこう言った。
「鎮周の今日の物言いは、私を臆病者呼ばわりするものではないか!私が何で鎮周に見下されなければならないのか!私は長年宗麟公にお仕えしてきた。近年でも幾多の戦場で命を顧みらず身を危険にさらして強敵を倒し、武勇を七カ国に轟かせている。大友家の家名をここまで上げたのには誰の尽力があったのかは周知の事だ。それなのに鎮周は傲慢にも自分の軍功をひけらかし、私に対する悪口雑言を吐くなど頭がおかしくなったとしか思えない。こうなれば、明日の戦は勝敗などどうでもよい。ただ前進して一歩も退かぬ戦をするまでだ!」
激怒してまくし立てる佐伯宗天も、また死を覚悟した様子である。
これを聞いた角隈石宗は、佐伯宗天をおしとどめてこう言った。
「それは間違っている。鎮周は血気にはやって宗麟公への忠節を忘れているが、なぜ宗天まで鎮周の真似をするのだ。そんな事をしたら、大友勢全軍で今回の日向侵攻に失敗するかもしれない。まず、田原(親賢?)とよく相談して、明日の決戦に備えるべきだ。戦に勝つには団結力が一番必要なのだ」
しかし、佐伯宗天は、
「相談などしない。頭のおかしくなった人間と一緒に戦わねばならないことは私の不幸だが、ここは討ち死にして私が勇敢か臆病者かを人々に示す」と言って頑として譲らない。
それを聞いて、角隈石宗もまた席を立って自陣に帰ってしまった。
逆瀬川豊前は、潜入した大友の陣でこの話を聞いて、心の中で喜んだが、「一人の人間の言う事だけでは信憑性がない。もしかすると私を島津方の間者と知った上で、欺くための謀略かもしれない」と考え、大友勢の各陣の様子を見て廻った。
田北鎮周の陣に忍び込んで様子を探ると、田北一族が集まって決別の宴を催しているようで、また陣中の兵も明日は死を覚悟した戦になるだろうという話をしていた。
また、佐伯宗天の陣に忍び込んで様子を探ると、ここもまた酒宴を催し、陣中は殺気に満ちていた。
ただ、角隈石宗の陣中は静かで、本営に武将が数名集まって戦準備をしているようであった。
以上の状況を考えれば、大友勢が明日動くのは間違いないところである。
敵陣を我が手の上に置いたような詳細な情報を聞いた島津義久は、大いに逆瀬川豊前の労をねぎらった。
義久は諸将を集めて明日の軍議を行った。議論が尽くされた結果、夜半に各部隊が配置についた。
(佐土原藩譜、征久公記)

<<高城川での最終決戦まであと数時間>>


<総括>結果として和平は「大友の策略」となった。

足並みそろわぬ大友勢

高城川での最終決戦の前夜に和平が結ばれた記述は、複数の島津方の文献に散見される。しかし結果としてそれは明朝に破られることになる。
島津方の文献ではこれを「策略であった」とする文献もある。結果的にはそうなったが、実際のところは不明である。
ただ、和平の使者として高城に来た武将の中には、主戦論を唱えたとされる田北鎮周やその一族の名前はない。逆に慎重論を唱えたとされる佐伯新介(佐伯宗天の弟)と、明朝の合戦で積極的に戦わなかったとされる田原親賢の名前があるのは、非常に興味深い。
また、臼杵統景が和平の使者に加わっていることも見逃せない。臼杵家は、大友家中では重臣中の重臣の家柄であり、彼は若い(19歳くらい)とはいえ、その家の当主である。さらに、島津側も彼を「陣大将」と記述している。
大友家中の実力者である田原親賢、筆頭重臣格の臼杵統景、それに佐伯宗天の弟の佐伯新介、これらの人物によって構成される大友側の和平の使者は、決して田原親賢の「独断」に基づくものではなく、「大友家の公式見解」に基づく使者と見るほうが妥当である。
私の推測では、一旦は大友内部でも和平と評議が決まった後に、大友方の和平論者が高城に来て和平を結んだが、それに反発する一派(田北、佐伯)が、従わずに独断で戦闘を開始し、仕方なく他の武将も戦闘に参加したのではないかと推測する。
それでも田原親賢は戦闘に参加しなかったようであるが、彼が主導で和平を結んだ経緯からも、一度は公式に和平と決まった経緯からも、戦闘に参加するのはメンツがつぶれると考えたのかもしれない。
一方、和平団に参加した、臼杵統景、佐伯新介は戦闘に参加している。
ちなみに、決戦前夜に諸将の足並みがそろわず、抜け駆け的な行動で戦闘が始まったという記述は、大友方の文献である大友記、大友興廃記、豊薩軍記にも見られ、島津方、大友方の文献の記述内容は、大筋で一致する。
こうして両軍は野村堅介の言ったように、明朝「戦場でお会いする」ことになるのである。

「決戦前夜の和平」に関しては大友方の文献は触れず・・・

前述の通り、決戦前夜の和平の記述は複数の島津方の文献に散見される。
しかし、この決戦前夜の和平については、大友方の資料である大友記、大友興廃記、豊薩軍記、両豊記のいずれにも見当たらない。
つまりこの和平についての記述は、「存在した」とする島津方の文献と、全く記述していない大友方の文献に見解が分かれているのである。
ただし、私は前日の和平は実在したと考えている。その理由は以下の2点である。
@島津方の文献の多くが実際に従軍して生還した武将(の一族)が書き、伝えてきた文献であり、実際に記述内容(地理、日付)も正確であろうと考えられること。
A大友方の文献の多くが記述内容(地理、日時、事象の前後関係)に明らかな事実誤認が多いこと。(敗軍の混乱した状態の中で記憶が混乱したのか、そもそも語り継げる生存者が少ないのかは分からないが・・・)

「もう一つの和平」に関しては島津方の文献は触れず・・・

さて、「ちなみに」であるが、高城の攻城戦が始まる前後にも和平の話があったようである。
大友方の文献である大友記、豊薩軍記、両豊記には、高城の攻城戦が始まる前後に、「高城に篭城する島津家久が和平をちらつかせて島津義久本隊到着までの時間稼ぎをした」という記述が見られる。
そのときの島津家久から大友方へ示された和平の内容はおおよそ以下の通りである。
「島津家にとって伊東家は仇敵きゅうてきであるが、大友家には遺恨いこんはない。その大友家がそこまでして伊東家を助けたいのであれば、伊東家に飫肥おび城(の一帯の領地)を返還するのでどうか兵を退いて欲しい。」
結局、この和平交渉は決裂して高城の攻城戦→高城川原の最終決戦となるのであるが、この和平についても、島津家久の策略だったのか、純粋に条件が折り合わずに決裂したのかは分からない。
そもそもこのような事は、全知全能を傾けて生き残るために死力を尽くす戦国時代では、よくあることなのかもしれない。
この和平に関するものと思われる記述については、島津方の文献である大友御合戦御日帳写に『大友勢より、中務なかづかさ殿(島津家久のこと)に和平の打診に応じるようにと何度も申し入れがあった』という記述が見られる。
ただし、ここに書かれている「和平の打診」が、上述の「伊東家に飫肥城を返す」和平の話なのか、「川原の陣の星野長門守らが単独で島津側に降伏する」という和平の話なのかは明確ではない。



佐土原城 遠侍間 佐土原城 遠侍間サイトマップ

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