島津家久、小倉こくらから船出して下関へ到る

天正三年 三月十日 小倉から船出

午前八時に出発。曽根の街を通って、午後二時頃に小倉こくらの街(福岡県北九州市)に到着して、高橋殿(高橋鑑種あきたね)の屋敷を見た。
そこから船に乗って進むと、船の上から右手の岸に赤坂という村(福岡県北九州市小倉北区赤坂)が見えた。そこには、「ねぶたの松」という平家の時代から生えているという、今まで見たこともないような立派な松があった。
その次に、大里という町(福岡県北九州市門司区大里元町)が見え、さらに、小森江という村(福岡県北九州市門司区小森江)、次に口のせ(くちのせ か?場所不明)があり、その隣に門司城(福岡県北九州市門司区)があった。
また、その道中の左手には彦島ひこしまという島(山口県下関市彦島)があり、その周りに漁船がたくさん出て砂を取っているのが見えた(貝を採っていたのか?)。
更に進むと、長門国の赤間が関(山口県下関市)があった。その先の桜尾(さくらお か?場所不明)という港に船を着けて上陸した。
その後、関の町(赤間が関=下関のことと思われる)を一通り見物して、 夜は関の町の左守という者の家に一泊した。

島津家久 往路鹿児島

管理人コメント

高橋殿?

3月10日に小倉に到着し、ついに船で九州を離れています。
さて、ここで「高橋殿」の屋敷を見ているのですが、これは高橋紹運じょううんではなく、高橋鑑種あきたねの屋敷と思われます。
高橋鑑種あきたねは、かつては筑前国守護代ちくぜんこくしゅごだい(言わば北九州一帯の最高責任者)を務めた、大友氏の中でもその名を知られた武将でしたが、家久公が小倉を旅する8年前の永禄十年(1567年)に、毛利氏と内通して大友氏を裏切りました。
この反乱は、大友方の猛将戸次鑑連べっきあきつら(後の立花道雪たちばなどうせつ)や、重臣であった臼杵鑑速うすきあきすみ吉弘鑑理よしひろあきまさらにより鎮圧されます。
その後、何とか命だけは助けられた高橋鑑種あきたねは、高橋家を奪われて大友氏側から追い出されてしまいます。
追放された高橋鑑種は、その後に毛利氏に仕官して小倉城を与えられました。つまり対大友氏の最前線に配置されたということです。
おそらく、この時に家久公が通りかかって、屋敷を見たものと考えられます。
それにしても家久公、大友氏に叛意はんい(反逆の意志)を抱く人々ばかり見てまわってますねぇ。偶然ですかねぇ・・・(笑)
ちなみに皆さんご存知の高橋紹運じょううんは、彼(高橋鑑種あきたね)が高橋家を追われた後に高橋家に養子に入って家を継いだ吉弘鎮種よしひろしげたねです。
家久公が通りかかったこの時には、高橋紹運(この当時は苗字だけ変わって高橋鎮種と名乗っていたはず)は高橋家を継いでいました。彼はおそらく高橋氏の本拠地である岩屋城いわやじょう宝満城ほうまんじょう(福岡県太宰府市)に居たはずで、小倉(福岡県北九州市)には居なかったはずです。

小倉城?

現代の我々からすると、小倉といえば立派な石垣がある小倉城のイメージです。ですが家久公は全くそのことを書いていません。高橋殿の「屋敷」のことは書いているのに・・・ナゼ?・・・
実は我々が知っている立派な小倉城は、関ヶ原の合戦前後に建てられた小倉城で、この時代の小倉城の姿は詳しく分かっていません。
もしかすると、家久公が「屋敷」と書いたものが小倉城だったのかもしれません。小倉城は平城ひらじろ(平地に建つ城)なので、南九州の山城やまじろ(山に建つ城)に慣れている家久公には「屋敷」と見えたのかもしれません。
とすると、当時の小倉城はそんなに重厚な堀や塀や櫓があったわけではないという仮説が成り立ちますね・・・。

今でも残っているもの、なくなっているもの

家久公が見たという、「ねぶたの松」という松は現存しているかは不明です。現存していれば樹齢が千年近い松なので何かしら県や国の指定を受けているはずですが見当たりません。
また、家久公は船から彦島を見てますね。ということは、巌流島がんりゅうじまも見ているはずです。有名な宮本武蔵と佐々木小次郎がこの島で試合をするのは、これから37年後のことです。

おのぼりさん丸出し?!

最後に、赤間が関(下関)は当時は貿易の一大拠点ですので、かなり賑わっていたと思われます。家久公、はじめて見る大都会にテンションが上がって街をぐるっと見学したみたいですね(笑)・・・。

佐土原衆のひとりごと

「砂は採らんっちゃねぇ?」
日本語訳(笑):砂は採らないんじゃない?
まぁ、これは説明不要かと・・・



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